上田城に拠(よ)った真田昌幸は二度にわたり徳川軍の攻撃を受けたが、二回ともよくこれをしのいだことは名高い。そのうちの初回、天正十三年(一五八五)の第一次上田合戦=神川(かんがわ)合戦では、閏(うるう)八月二日の上田城頭の激戦で真田軍が勝利をおさめている。その後の対陣中に真田昌幸は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。それもあって德川軍は撤退したものでもあった。ところが、秀吉は一旦掲げた家康討伐の方針を、翌年になると撤回し、家康を交渉により臣従させようとする。こうした動きの中で、徳川に敵対する真田の問題は、秀吉にとって家康を臣従させるについての障害という位置付けになってしまう。こうして真田氏は、存立の危機に陥ってもいるのだが、ここに至るまでの昌幸の動きからまず概観してみたい。

真田昌幸画像
真田昌幸画像

<史料解説>

真田昌幸画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管

 上田や松代などで昌幸肖像として、いくつか知られている同様の画像の一つ。真田氏上級家臣河野家伝来品。高野山における真田家の菩提寺であった蓮華定院に伝わるものが、最も丁寧に描かれており原本とみられる。ただし、これは昌幸ではなくその子信之信幸)像とされている。大名などの肖像画は一般的にはその菩提を弔うために死後寺院へ納められたものであった。蓮華定院蔵本は九十歳代の老人に見えることとあわせ、原本はやはり九十三歳という長寿を保った信之の晩年の肖像とみて間違いあるまい。蓮華定院には信之の墓もある。しかし、本画像を含め、写しと見られる他の画像は、いずれも顔を若返らせて描いており、享年六十五であった「昌幸画像」と言っても、必ずしも誤りとは言えないだろう。なお、本画像の上には「謀(はかりごと)は帷幄(いあく)の中に廻らして、勝ちを千里の外に決す」と記されている。これは漢の張良の故事で、帷幄とは作戦計画を立てる所、本陣、本営の意。