秀吉は、天正十三年(一五八五)に四国を、同十五年には九州を平定し、続いて同年、関東・奥羽に惣無事(そうぶじ)令を発している。惣無事令とは領主間の武力による争いを私闘として禁じ、領地紛争については秀吉が裁定すると定めたものであった。このように秀吉の天下統一事業が進む中で、関東の北条氏は、なかなか秀吉に従おうとはしなかった。天正十六年の秀吉の上洛命令に当主氏直は応じず、ようやく叔父の氏規が上洛した。ここで氏規は真田氏の沼田領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。翌十七年七月、秀吉は沼田領問題を最終的に決着させるべく津田隼人・富田左近の両人を検使として遣わした。これにつき真田信幸に上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように命じている(写真)。信幸は昌幸の長男であるが、昌幸にではなく信幸に、これを命じたのは、既に真田領のうち上州分については信幸に任せることになっていたため、とみられる。
このときの秀吉の裁定は、上州の真田領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は真田領として残し、真田の減少分の替地は家康より渡すべし、というものだった。この替え地については信州伊那郡で与えられており、天正十七年十一月に信幸が上伊那箕輪の地を家臣に給した宛行状が何通か知られている。
<史料解説>
天正十七年(一五八九)七月十日
昌幸にではなく信幸(源三郎)に宛てたものとしては、初の秀吉書状。年来の沼田城・沼田領の帰属をめぐる北条と真田の争いを、秀吉が使者(検使)を派遣して裁決しようとした折のもの。沼田城の北条方への引き渡しについては家康の重臣榊原康政も立会いに出向いている。