[ルビ・注記]

諏訪製糸業      1
      附 金融機関
 
  (改頁)      3
 
山嶽四周を囲み交通不便を極めたる
の地何に因りてか製糸業は勃興した
る其創始以来の歴史は如何其現況は如
何然して又之れが補助機関たる銀行業
倉庫業及び乾業は如何是等幾多の質
問に対して明快なる即答を与ふるもの
は此小冊子なり述へ得て詳密ならすと
雖も頼て以て諏訪製糸業なるものゝ概
念を得るに庶幾(こいねがう)からん歟(や)  著 者 識
 
  (改頁)      7
 
諏訪製糸業  附 金融機関
 
   ●諏訪の地勢
 諏訪郡の地、八ヶ岳・蓼科・和田・塩尻・守屋・釜無の諸山
を以て囲繞(いじょう:かこいめぐらすこと)せられ、東南八ヶ岳の麓は高原をなし、西
北低き処水を湛へて諏訪湖をなす。其水面は海抜七
百八十米突、周囲四里二十丁、流れて天龍川となる。風
景明媚(めいび)、湖光山色、天然の好画図なり。冬季湖面氷結し
厚きこと尺余、神渡の伝説ありて能く人馬の来往に
堪へ、近者氷滑戯(スケート)漸く盛なり。夏は冷涼暑を避くべし。
諏訪町・下諏訪町には温泉ありて四時共に浴に適
し、又官幤中社諏訪神社上社(中州村字神宮寺)同下社
 
  (改頁)      8
 
(下諏訪町)の名祠(めいし)あり。是を以て遠近の人士来り遊ぶ
もの常に夥し。
 湖の北より西に亘り、湖岸及び天龍川に沿ひ、中央
線鉄道岡谷駅を中心として、之を囲繞せる平野・川岸・
長地・湊の諸村及び下諏訪駅所在地の下諏訪町を
糸業
地とし、中に就て最盛なるを平野・川岸二村とす。
 郡の面積六十四方里、町村数二十四、戸数一万八干
余、人口十万一干余、郡役所は上諏訪町に在り。
 
 
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
         万 葉 集
     たらちねの母がかふこのごもり
          いぶせくもあるか妹に逢はずて
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  (改頁)
 
   ●維新前の産業状態
 遠き神代に於て、建御名方命(たてみなかたのみこと)が武甕槌(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)の二
神に逐はれて此地に来り、復他に出でざるべきを誓
ひ茲に留り給ひてより、中世、信濃国を割きて洲羽国
とし、又罪人配流の地と定められたるが如き、如何に
此地の偏僻なりしかを知るに足らん。降りて高島(今
の上諏訪)藩主諏訪侯の所領となるや、藩土狭小にし
て財政裕ならず、収歛(しゅうれん)従て巌酷なりしが上に、会中仙
道の要路に当り、和田嶺・塩尻嶺二嶮の間に夾(はさ)まり、人
馬継立の為め其住民は常に過多の労役を課せられ、
而も耕地少く天産の乏しきに苦みたる彼等は、農業
以外種々の副業を求めざるを得ざりき。是に於てか
 
  (改頁)      9
 
 一は 酒造の杜氏又は其労働者となり、或は軽子
 と称し江戸に出でゝ荷造等の労役に服するもの
 にして、多くは八ヶ岳及び和田嶺(とうげ)山麓の民より出
 で。
 二は 大森海苔を各地に行商するものにして、中
 筋と称する諏訪湖南岸のもの之を営み、今尚之を
 業とするもの多し。
 三は 鋸の製造販売にして、山裏と称する八ヶ岳
 の麓にある人民より出でゝ、遠く関東・奥羽各地に
 販売す。現時其販路更に拡張し、北海道・樺太・朝鮮・満
 洲に及ぶ。
 四は 綿打及び綿の販売にして、湖の西北岸即ち
 平野村・川岸村の農民等、濃・参・遠・甲各州より輸致せ
 
  (改頁)
 
 られたる原綿に加工し、筑摩・佐久・小県諸郡より上
 州地方まで行商したり。現今製糸家の大なるもの
 にして、此綿商より出でたるもの多し。
其他或は湖上貨物を運送し、魚貝を漁撈し、或は山に
薪を採り、果を拾ふに過ぎず。斯く天然と人為とに虐
待せられて不幸の境遇に生活せる人民が、其勤勉忍
耐の気風を馴致(じゅんち:なじむ)したるは素より自然の勢にして、彼
等が労役に堪ふるの精力と、節倹にして志操の堅実
なると、敢為の気象に富めるとは真に驚くべきもの
あり。本郡製糸業の今日の隆運を見るに至りしもの、
其原因主として茲に存す。加ふるに古来の生産あ
りて子女は座繰製糸に熟練し、且水質純良にして水
力利用の便あり、又土地高燥にしての貯蔵に適す
 
  (改頁)      10
 
るにより、金利の高き、運輸の困難なる、燃料・食料・女工
の乏しき等夥多の不利不便ありしに拘らず、漸次斯
業の発達を見るに至りたるもの良に以あるなり。
 
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
        沸湯波湧雪 熟攤糸時
    題綴糸図             大窪詩仏
        若問相思切 長於綴出糸
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  (改頁)
 
   ●製糸業の沿革及び現状
 本郡に製糸業の起りしは今より百年前寛政の初
年に在り。即ち極めて簡単なる繰車により、光沢悪し
く纎度整はざる手引の提糸(さげいと)を製造し、京都・岐阜・長浜
等の織物産地に供給したるを始とす。之を[ノボセ」糸
と称したるは上方に[ノボセル]の謂(いう)なり。
 安政五年海外貿易の開始せらるゝや、翌年九月平
野村林善左衛門、横浜商人の手を経て之を外人に売
渡せるを生糸貿易の濫觴(らんしょう:起源)とし、是より生糸商業此地
に起り、上田が北信に於て生糸商業の中心となりし
が如く、諏訪は南信に於ける生糸の集散地となれり。
尋(つい)で平野村林源次郎・清水久左衛門、上州伊勢崎より
 
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座繰器械を携へ来り、是より製糸業漸く盛なり。然れ
ども尚家内工業として―傭入せる僅少の飛騨人
の外―農商の妻嬢の副業たるに過ぎざりき。降り
て明治六年東京の豪商小野善助、範を伊太利(いたりー)式に取
り百釜の器械製糸場を上諏訪に建設す。之を本県に
於ける器械製糸の嚆矢(こうし)とす。八年武居代次郎の中山
社工場を平野村に設けてより器械製糸業は俄に勃
興し、九年白鶴(はっかく)社・鳶湖(がこ)社、十年山本社、十一年に開明社・
皇運社組織せられ、白鶴社の傭聘(ようへい:礼をつくしてやとう)したる旧勸農局技
術生中野健次郎に依り製造法に改良を加へられ、十
二年開明社員片倉角左衛門陶器鍋を発明し、為めに
生糸は天然の光沢を損せず且糸量を増し、以て事業
の利盆を増進したり。十四年白鶴社率先して品質の
 
  (改頁)
 
審査を厳にして之が精粗均一を図り、大に諏訪生糸
の声価を高めたり。同年横浜内外商間の確執より取
引中止せられて糸価暴落し、製糸家の損失多大にし
て斯業に一大頓挫を来さんとせしが、堅忍不撓(ふとう:困難に屈しない)なる
当業者の精力は能く頽勢を挽回し、十七年開明社に
於て共同揚返場を設けて製品に改良を施しゝより
忽ち各社の傚(なら)ふ所となり、原料の需要増加して従来
仰ぎ来りし甲州・信州の産のみに甘んずること能
はず、十八年進んで之を上州・武州に求め、二十一年信
越線鉄道碓氷嶺を除くの外開通し、生運搬の困難
漸く減じたるにより、関東各地に原料を求むるもの
益々増加せり。二十四年龍上館始めて其工場に汽機
を試用したりしが、二十五年より之に傚ふもの漸く
 
  (改頁)      12
 
多し。同年の事業は多額の利益を得たるにより、全部
八千余釜のもの翌年は一躍して一万九百余釜に達
し、其翌年碓氷嶺の鉄道貫通して交通の障碍除却せ
らるゝや、関東・東海・東北各地の産諏訪製糸の原
料として其大部分を吸収せられ、更に清国に航して其
を購入せるものあり。彼等は又諏訪の交通の不
便、冬時の厳寒、薪炭の欠乏に顧み、明治三十一年片倉
佐一・小口伝吉が共同して武州千駄谷に三十釜の工
場を設けたるを始とし、富国館・開国館相次で深谷に
新設せられ、爾来上野国(こうずけのくに)(群馬県前橋市)・武蔵国(むさしのくに)(東京都府中市)・常陸国(ひたちのくに)(茨城県石岡市)・総国(ふさのくに)(千葉県)より遠く仙台・徳島に分工
場を設けたり。三十八年十一月中央東線鉄道岡谷迄
開通し、三十九年六月塩尻・岡谷間開通す。本郡製糸家
が従来利用したる鉄道線路迄の最近距線は、篠井線
 
  (改頁)
 
開通前に在ては和田の嶮を経て大屋に至る迄十数
里の間、並に篠井線開通後と雖も塩尻に至る迄数里
の間は、孰(いず)れも山路の輸送に依らざるべからざりし
を以て尚至大の不便ありしが、此に到て原料・食料・燃
料の輸入、製品の輸出、一層容易且迅速なるを得、運賃
保険料低落し、工男女募集の困難減ぜられしかば、彼
等は其郷土に於て事業を拡張したるのみならず、関
東及び東北方面に発展を試み、三十八年より四十年
に於て十工場二千五百余釡を新設し、且既設の工場
を拡張し、同時に原料を中国に、四国に、九州に求め、苟
兒の飼育せらるゝ処、其足跡を印せざるの地な
し。四十四年五月中央線鉄道全通し、関西との交通運
輸は東海道を迂回するを免れたり。其甞て東に施し
 
  (改頁)      13
 
たるもの、奚(な)んぞ之を西に行はざらんや。其将に全通
の近づくを見るや、片倉組・《ヤマジュ》組・林組孰れも愛知県に
分工場を建設したり、其釜数同年夏挽に於て千百余
釜に達せり。試(ためし)に諏訪人が、其郷土及び郷土以外に於
て有する器械製糸工場の釜数を示さば(明治四十四年六月現在)
【釜数は原本ビューワ参照】
 
  (改頁)
 
 合計実に三万六千四百三十九釜にして、之に依り
て一ヶ年間に産出する生糸は約八万個(一個約九貫
目:三三.七五キログラム)に達すべく、其価格百斤(きん:六〇〇キログラム)九百円と仮定すれば、四千
三百万円を超ゆべきなり。
  中央線全通が関西岡谷間の運輸上に及ぼす影響 名古屋より
  岡谷まで東海道を迂回せし従来の哩(り)程三四四哩(約三万六四六五キロメートル)一なりしもの、
  中央線に拠るときは一二五哩七(約一万三三二四キロメートル)に短縮し、前者の生運賃貸切
  扱七噸(とん)(七〇〇〇キログラム)に付き七拾弐円四拾五銭なりしもの、後者は弐拾六円四
  拾六銭に減ぜられ、中国より積出したる貨物も、二日又は三日に
  して其着荷を見るべし。
 
 諏訪製糸業者は概ね自ら称するに何社、何館を以
てし、或は何組と称するもの亦少からずと雖も、合名
合資又は株式組織より成れるもの四五社を除くの
 
  (改頁)      14
 
外は、一個人の単独事業又は数人者の匿名組合に成
り、社名、館名は其商号又は製品の銘柄たるに過ぎず。
而(しこう)して各自に揚返場を有するものあり、或は多数工
場主が共同して揚返、荷造をなすものあり。其揚返場
に於て一定の揚返をなし、繊度・品位・重量の検査を行
ひ、等級を分け、之に相当する商標を附し、横浜に輸送
するものなり。従て共同揚返によりて荷造せられた
るものは、揚返以後の費用のみ共同分担となり、其主
たる事業の損益は、各人個々の計算に属するものな
り。
 右多数の工場中には、中等又は玉を用ゐて内
地用の製糸を業とするものあり。桐生・足利・八王子・西
陣・長浜・栃尾・金沢・小松其他各機業地に向ひて多額の
 
  (改頁)
 
製品を供給し、又生皮苧(きびそ)(を作る際に最初に吐き出す糸、太くて硬いことから繊維として生糸に使われる)・デニール糸・蛹(さなぎ)等の製糸副産
物を処理し、横浜其他に移出するの工場商売亦少か
らずとす。
 
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      小麦青々大麦黄、原頭日出天色凉、
      姑婦相呼有忙事、舍後煮門前香、』
  繰糸行                  宋范成大
      繰車曹々似風雨、厚糸長無断縷、
      今年那暇織服著、明日西門売糸去、
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 
  (改頁)      15
 
   ●岡谷駅附近の盛観
 旅客若し諏訪に入らば、天龍川の右岸に方り、鉄道
線路に近接して製糸工場と倉庫と相櫛比し、烟突(えんとつ)林
立煤烟(ばいえん)天を蔽ふを見ん。之を平野・川岸の両村とす。之
に近接せる湊村を合せて三村の工場に要する工男
女二万三千余人、毎年六月の中旬夏挽(なつびき)製糸の開始期
に方り、工男女の岡谷に下車するもの連日数千人、各
地より輸送せらるゝ生の着駅するもの一日百車
の上に出づること十数日、四十三年六月其最も多か
りし日は一日百五十余車、(此個数一万六千本)其他
米穀・石炭・諸雑貨の着荷亦尠からず、其雑沓地方稀に
見る所なり。
 
  (改頁)
 
 一ヶ年間岡谷駅に着せる  四十三年に於て 三二〇、〇〇〇個
 同  上  米  穀    同         五、五〇〇噸
 同  上  石  炭    同        七二、〇〇〇噸
 同上積出したる生糸     同        五四、九〇〇個
 四十三年中に於て、岡谷に向けての発送を取扱
ひたる駅の数二百にして、之を前年に比すれば二十
駅を増せりと云ふ。
 岡谷は 元岡谷村と称せしが、明治七年小口・小井川・今井と合併
 して今平野村の一部たり。平野村は四十三年四月一日現在戸数
 千九百五十五、人口一万三千五百十、之を明治二十九年十二月末
 日の現在戸数千三百五十四、人口七千二百九十に比すれば六百
 余戸、六千二百余人を増せり。此急激の増加は、謂ふ迄もなく製糸
 業
の発達に伴へるものなり
 
  (改頁)      16
 
(備考)長野県下蚕糸業統計一斑
 ●園反別     (明治四十三年六月末日現在)
   反  別  四万六十一町一反
   見積反別  三千三百五町二反
   合 計   四万三千三百六十六町三反
 ●收  額     (明治四十三年)
   春   二十四万千百十八石  [飼育戸数十万七千三百六]
   夏   十七万四千六百五十七石 [飼育戸数十万七百九十]
   秋    十七万八百九十四石   [飼育戸数十一万九千八百十二]
   合 計   五十八万六千六百六十九石
 ●器械製糸工場  (明治四十三年五月末日現在)
   県内に在る工場数四百九十三、釜数四万七千四百五十七
   県外に県人の有する工場数二十七、釜数七千五百五十八
 
  (改頁)
 
 ●生糸産額    (明治四十二年)
  器械生糸  七十二万七千三百四十二貫目[九貫目を一個として計算すれば八万八百十五個なり]
  座繰生糸  二万七千百四十四貫目   [同上三千十六個なり]
生糸産額は農商務省の統計にして、輸出用・内地用を総計せる
ものなれども、事実は遙に之より多額なるべし。今之を輸出品の
みに就て見るも、同年度各府県より横浜に入荷せる生糸の総額
は二十五万六千二百七十八個、内器械生糸二十一万五千三百八
十五個(一個は約九貫目)にして、其内長野県の出荷八万二千八百
九十三個(全部器械生糸)、即ち総額の三割二分に当たり、器械生糸
の総額に対しては三割八分を占む。然して県人が県外に有する
工場の同年の産額は正確なる統計を得難きも、之を約二万五千
個として前記県内の産額に合計し比算する時は、優に総額の四
割二分に当り、器械生糸のみの比較に於ては正に半額強を占む。
其内諏訪人が県内外に有する工場のみにて製出せる総額を約
七万個として計算すれば、横浜入荷総額の二割七分強、器械生糸
 
  (改頁)      17
 
総額の三割二分を占め、長野県人の総製造額の六割四分に当る。
想ふに四十三年度四十四年度の統計を得て之を比較対照せば
諏訪系統の産額歩合は更に一層の増加を見るべし。以て如何に
其生産力の旺盛なるかを知るに足らむ。
 
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
       いつまでか子ののいぶせさも
           心にのみはこめてすごさん
                    伴 蒿 蹊
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  (改頁)
 
   ●銀 行
 諏訪製糸家に最も多くの資金を供給するものは
株式会社第十九銀行にして、岡谷に設置せる支店を
諏訪支店と称す。同行は明治十年十一月、第十九国立
銀行と称し小県郡上田町に創立せられたるものな
り。当時上田は著名なる生糸の集散地たりしを以て、
生糸に対する放資自ら多からざるを得ず、從て生糸
に関する万般の事情に精通したり。其後器械製糸業
諏訪に起るや専ら之が資金を供給し、荷為替の便
を開くと共に運送保険業を慫慂(しょうよう:さそいすすめる)して運送の安全を
図り、大に斯業の発逹に尽す所あり。之が為め明治十
四年より、毎年夏期下諏訪町に臨時出張員を派遣し、
 
  (改頁)      18
 
年末まで同地に滞在して業務を取扱はしむるを例
とせり。然るに当時製糸業の基礎尚甚だ鞏固(きょうこ:しっかりとしてかたい)ならず、
往々挫折失敗を重ぬるものあり、加ふるに明治十七
八年経済界の非運に際会し、同行亦深甚の瘡痍(そうい:きず)を被
りしも、現頭取黒沢鷹次郎の起て専ら其任に当るに
及び、資金濫貸の弊に鑑み、当業者の性行・閲歴よりそ
の事業経営方法の適否・資力の厚薄を審(つまびら)かにし、極め
て堅実の方針を以て着々取引を拡張し、二十三年に
至り下諏訪町出張所の位置を製糸業の中心地たる
平野村字岡谷に移転し、三十年四月之を支店に改め、
爾後製糸業の進歩と共に行運益々隆昌を加へ、今や
基礎の強固なる製糸家にして同行と取引せざるも
の殆ど稀なり。今製糸業最盛時に於ける同行の営業
 
  (改頁)
 
状態の一斑を知らしめんが為め、明治四十三年八月
末日の貸借対照表を左に掲出す。
   XIX株式会社第十九銀行貸借対照表(明治四十三年八月三十一日現在)
     借    方             貸     方
            円                    円
 貸付金及貸越  四、五三八、九一〇・九一九  定期預金    二一六、〇三四・二二〇
 割引手形    四、六二一、六五九・二一〇  当座預金  一、一五四、〇三八・七九七
 荷為替手形     五二九、七二八・五五〇  小口当座預金  二八六、六八五・四四〇
 他店へ貸      一〇七、六八三・二八〇  貯蓄預金    三四一、五六七・七五〇
 払込未済資本金   三〇〇、〇〇〇・〇〇〇  諸預金   一、六六六、三三九・九四一
 国債証券      四五二、九一九・八五〇  借入金   二、七八〇、〇〇〇・〇〇〇
 所 有 物     一四七、四二一・五〇〇  再割引手形 二、〇三〇、〇〇〇・〇〇〇
 総 損 金      四三、〇五一・五六五  他店ヨリ借   一四三、九三四・六一〇
 金 銀 有 高   二〇六、一一一・一八一  資本金   一、五〇〇、〇〇〇・〇〇〇
                        諸積立金    七四〇、〇〇〇・〇〇〇
                        前期繰越金     一、五八一・八三〇
                        総 益 金    八七、三〇三・四六七
 合   計 一〇、九四七、四八六・〇五五   合  計  一〇、九四七、四八六・〇五五
 
  (改頁)      19
 
(備  考)
●最近一ヶ年間統計一班 (明治四十三年
 金銀出納総高    五八一、〇七六、八四六円  諸預り金総預高  三〇、七八〇、六三七円
 諸貸金総貸高     三三、八〇八、八二四  手形割引総高   二二、六六八、二五六
 荷為替取組総高    一二、二九七、一一六  送金為替仕向総高  五、三〇二、九五三
 
●現任役員
  取締役頭取 黒沢鷹次郎  常務取締役 飯島 保作  常務取締役 箕輪 五助
  取締役   辰野 基   取締役   片倉佐一
  監査役   茂木 保平  監査役   小口 善重  監査役   児玉彦助
●営業科目
  定 期 預 金   当 座 預 金   小口当座預金
  貯 蓄 預 金   貸  付  金   請手形割引
  送 金 為 替   荷  爲  替   代 金 取 立
●本支店為替取組先 七百七十三個所 (四十四年六月現在)
 
  (改頁)
 
●本支店所在地
 本  店  長野県小県郡上田町
 東京支店  東京市日本橋区堀江町    長野支店  長野県長野市大門町
 諏訪支店  長野県諏訪郡平野村岡谷   野沢支店  長野県南佐久郡野沢町
   上田町は 生糸蚕種及び上田縞其他の絹綿諸織物の主産
   地にして、器械製糸場亦多く、国立上田糸専門学校・県立小県
   甲種蚕業学校等の設あり。真田幸村の古城趾を存す。
   長野市は 善光寺の大伽籃を有し、且長野県廰の所在地たり。
   附近に製糸工業地たる須坂町及び松代町あり。貨物並に旅客
   の出入甚だ盛なり。
   野沢町は 南北佐久郡の中心に位する商業地にして、・糸及
   び薬種人参の生産あり。叉附近各村に器械製糸工場多し。
 
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
          群山環抱儼成欄、中貯平湖青鏡寒、
       諏訪湖              僧六如
          君看芙蓉涵影処、天然玉女洗頭盆、
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  (改頁)      20
 
   ●倉庫及び乾
 我が信州は空気乾燥にして、生を人工乾燥を施
さずして能く貯蔵し得るを以て、乾燥業の尚幼稚な
りし往年に在りては、生の尽(ことごとく)之を貯蔵し、且工女は
能く生の繰糸に慣熟したるが故に、信州生糸の大
部分は、生若くは天然乾燥のを以て製出せられ
たりしなり。然して之が貯蔵の要求に応ぜんが為め、
信州に起りたる倉庫業の先駆者を、小県郡上田町に
設立せられたる上田倉庫株式会社とす。同社は明治
二十七年一月の創立に係り、貯用の倉庫及び
燥所を建設し、南佐久郡野沢町に支店を置き、営業次
第に隆昌を加へたり。同社創立以来、之に傚うて信州
 
  (改頁)
 
各地に同業の起るもの漸く多かりしも、独り製糸業
の最盛地たる岡谷附近に之が設け無く、製糸業者は
勿論、一般商工業者の不便一方ならざるものありき。
明治四十一年十一月、機漸く熟して茲に
 諏訪倉庫株式会社の創立 を見るに至れり。岡谷
停車場の東北数町の地に、三十余棟の建物の秩序よ
く整列せる一廓を其本店とす。四十三年四月、其歴史
目的及び営業状態を等しうせる上田倉庫株式会社
を併合し、上田・野沢両店を支店と為し、営業益々隆盛
を加へ、前途の発展将に刮目(かつもく:よく注意してみること)して見るべきものあら
んとす。
 同社現在資本金貳拾五万円(内払込高拾五万円)に
して、本支店所在地・所有倉庫・乾燥所及び役員氏名左
 
  (改頁)      21
 
の如し。
 諏訪倉庫株式会社 長野県諏訪郡平野村  (電話長一二〇番)
     岡谷停車場より約十町
 同  会社上田支店 長野県小県郡上田町 (電話 二○番)
     信越線上田停車場前
 同  会社野沢支店 長野県南佐久郡野沢町(電話 長一九番)
     信越線御代田駅より約三里、小諸駅より約三里半
   (支店所在地の商工業の概況は前項銀行の部に掲出せり)
 倉  庫 (平家建より五階建に至る)  三十三棟
    此倉坪六千三百七十五坪
 乾燥所(火熱式及び汽熱式)       五   棟
    此建坪六百九十坪  (一回收量約五百石)
 右の内平野村本店にあるもの
 
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   倉 庫 二十三棟 倉坪三千九百四十坪
   乾燥所 三  棟 建坪五百一坪(一回收量約三百十石)
             取締役社長  黒 沢 鷹 次 郎
             常務取締役  箕 輪  五 助
             同      高 橋  槇 蔵
             取締役    飯 島 保 作
             同      宮 坂 作 之 助
             監査役    宮 坂 伊 兵 衛
             同      児 玉  彦 助
             同      大 井  栄 作
             支 配 人  溝 口 多 門 司
 の殺蛹及び乾燥方法の良否は、糸質・糸量及び工
女の工程に甚大の影響を及ぼすものあるが故に、製
 
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糸家は常に多大の苦心を以て自ら之が作業をなさ
ざれば安んぜざるの状あり。蓋し乾の方法たる今
日尚甚だ幼稚にして、現在の各種の装置にありては
之を手加減の巧拙に待つこと多きを以て、特に細心
の注意と幾多の熟練とを要するものあり。諏訪倉庫
会社は之が作業に付き、範を多年の経験ある上田倉
庫会社に取り、其装置は、工学博士谷口直貞氏の考案
に成り、数次の実験を重ねて特許を得たる『諏訪式乾
燥装置』と称する火熱式にして、外に特殊の汽熱式及
び火熱式の装置を併用し、常に比較研究を行ひ、之が
成蹟は孰れも従来の各種の方法に比し遥に優良な
りとの好評を得たり。蓋し同社乾燥装置の、最も合理
的にしてよく在来の種々の欠点を補ひ得たると、其
 
  (改頁)
 
技術の熟練との致す所たらずんばあらず。
 同社の営業科目は貨物の保管・倉庫の賃貸・其他
の貨物の乾燥に在り。即ち同社は主としての乾燥
及び保管を為すの外、米穀・肥料其他各種の商品を保
管し、内外国数社の火災保険業者と特約して、一切の
寄託物を火災保険に附して其安全を図り、且寄託主
の要求に応じて質入証券及び預証券又は倉荷証券
を発行す。是等の証券は其貨物を代表する流通証券にして、之を以て其貨物を売渡し或は質入すること
を得べく、又同社は第十九銀行其他の銀行と特約し
て、其銀行の質物たる其他の諸貨物を保管す、之が
取扱手続極めて簡捷(かんしょう:てがるですばやきこと)なり。
 明治四十三年度同社寄託物の内、の入庫八万三
 
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千七百八十一石九斗五升にして、其他生糸・屑物・米穀
肥料・諸雑貨を合せて、之が火災保険金額の総計参百
六拾八万四千参百六拾四円に上り、年末現在貨物の
火災保険金額は六拾四万九千二百六拾円なりき。又
同年度同社に於て殺蛹乾燥を施したるの数量は
四万三千二百三十二石四斗一升に上れり。
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          不溢諸県第一名、製糸場列水辺村、
    諏訪製糸場              高橋月山
          最憐工女繊々手、繰出邦家富実源、
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  (改頁)
 
   ●製糸以外の産業
 諏訪に於て、製糸業の盛大なるに比すれば遙に及
ばざれども、尚軽視すべからざる数種の産業あり、即
ち寒心太(かんてん)・蚕種・鋸・平石・湖魚・氷等なり。
 寒心太 弘化年間に製造を開始せしが、漸次製法
 に改善を加へ、販路次第に拡大し、方今産額年々五
 六拾万円に上る。原料は海岸各地より購入し、製品
 は支那及び欧洲に輸出せらる。
 夏秋蚕種 諏訪種と称し、児の強健を以て名あ
 り。製造年額三十余万枚、価格四拾万円。
 平石 上諏訪町・四賀村の山部に産す。屋根石其他
 の川途広く、中央線開通以来京浜に輸送せらるゝ
 
  (改頁)      24
 
 もの多し。年産額二拾万円。
 水産 諏訪湖は鯉(こい)・鮒(ふな)・鰻(うなぎ)・蝦(えび)・蜆(しじみ)等を産す。年額約拾万
 円。冬季結氷すれば之を採取して夏季の飲料及び
 冷蔵用に供す。年産額五六万円。
 其他鉄工場・製材所・精米所・米穀商・石炭商を始めと
し、製糸業に附随し、或は必要に応じて起りたる各種
商工業の逐次隆昌を来せるもの、蓋し当然の勢なり
とす。
 
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         十月湖氷玉己成、神踪先自導人行、
     諏訪湖              菊池五山
        脚痕時怪轟雷軸、便是寒隆割有声
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