[解説]

 
長野市公文書館 西沢安彦

師範教育と能勢栄
 
 明治九年(一八七六)八月、旧長野県と筑摩県が合県して長野県となったことにより、十月旧筑摩県師範学校は長野県師範学校本支校となった。十四年文部省が小学校教則綱領・師範学校教則大綱を定めると、県もこれに従って小学教則の改正や、県師範学校規則の制定に着手した。
 十五年七月、県令大野誠に招かれて県師範学校初代専任校長として、学習院教授兼監事であった能勢栄が赴任した。能勢は幕臣の家に生まれ、戊辰戦争に参加した経験をもち、維新後渡米して苦学のすえパシフィック大学を卒業した。理学を修め、絵画・楽・体操にも通じていた。九年に帰国し岡山県師範学校・岡山中学校に勤務している。能勢は師範教育制度が大きく変化していく時期に長野県に着任したのである。
 来県早々の十月、文部省との協議をへて長野県師範学校規則が制定された。全二二章からなり、入学規則・教則・学科課程・試業規則などについて細部にわたって定められている。学年は九月から翌年七月まで、学期は二期制であった。初等(修業年限一年)・中等(同二年半)・高等(同四年)師範学科が置かれ、各等科最初の初等科二級・中等科五級・高等科八級は同じ学科課程で重複し、どの等科に入学しても修業年限四年で高等師範科を卒業することができた。
 最終の高等科一級の学科課程をみると、週時数は心理二時間、教育学・学校管理法六時間、実地授業一八時間となっており、教科はほとんどが高等科二級で終了しているが、唱歌・体操は学ぶようになっている。教職専門と唱歌・体操に重きを置いていることがうかがえる。
 明治十六年一月十二日、師範学校は開業式を挙行した。校長能勢栄の演説、大野県令の祝辞があった。大野は師範学校生徒の修業・勉学が我が国発展にとって重要であることを説いている。続いて二月に後期が終了のため、卒業証書授与式を実施し、最初の卒業生を小学教育の場へ送り出した。
 小学校教則に基く授業に教員養成が間に合わないため、十六年一~三月に師範学校主催の講習会を開催している。各郡から教員の代表一二一人が出席し、能勢がバイオリンによる唱歌の授業、教育学、教授法などを担当し、塩谷吟策が実地指導法、清水錦太郎が亜鈴・棍棒などを使った体操を指導した。ペスタロッチの理論に基くジョホノット(アメリカ・ミズーリ州の師範学校長)の教育学や、同じくその理論による開発主義(開発教授)の実体教授を指導した。受講者は帰郡後、自校や近隣学校の教員を集めこの内容を伝達講習したため、新しい教育内容や教授法は迅速に町村小学校へ普及していった。
 この時期、能勢は県下の教育・教員養成に関し積極的に発言している。「長野県下ノ小学教員ニ告ル文」(『信濃毎日新聞』十五年十一月十二~十六日)で、①体育の重視、②徳性を育てる上での唱歌音楽の重要性、③智育において開発主義教育が有効であること、などについて述べ、「真ニ教育ノ道ニ熱心シ其学校ノ改良ヲ希図スルナレハ、(中略)本県師範学校ヘ来リ、唱歌体操ノ伝習ヲ受ケ教育学心理学ノ講義ヲ聴キ、実地授業法ヲ熟覧」することを勧めている。
 また、「教育上目今ノ三大急務ヲ論ズ」(『信濃毎日新聞』十五年十一月二十五日)では、師範学校・中学校長について、①教育論・教授法・管理法を知らず、流行の政談家に学び、政党者と交流、校務を放棄し集会団結のことに従事する者、②儒学などの影響から抜け出せず、智識開発に対する考えのない者、について批判している。当時自由民権運動の高まりのなかで、長野県師範学校本支校の十五年十月までの卒業生のうち四四パーセントが民権結社奨匡社の社員であった。「我地方ノ自由ハ師範校ノ森林中ヨリ萌生セリ」といわれるほど、県師範学校本支校の自由民権熱は大きかった。
 能勢の師範学校改革は始めから順調にいった訳でなく「夜間に能勢氏の住宅に投石する師範生がいた」との証言もある。しかし、欧米の最新の教育理論と開発主義の教授方法は、師範生徒や小学生徒の教育を担当している教員の心を次第にとらえていった。教育理論・教授方法は民権派教員の大きな弱点であったことから、急速にその影響は減退していった。彼は十六年七月の師範学校卒業式で、粗暴過激の言論、他生徒を教唆煽動するような弊害は十五年中にまったく絶滅した、と述べている。
 明治十八年八月能勢は「長野県教育の実況」(『大日本教育会雑誌』)と題し、長野県が教育上他府県より優れている点を一〇項目にまとめて雑誌に発表した。続けて困難点として四項目掲げているが、その第二項で長野県会が、医学校の廃止や師範学校生徒貸費全廃を決定し、師範学校全廃の建議についても議論したことを批判している。折からの方デフレ下の不況により教育費も削減されたのである。
 能勢を招聘した大野県令はすでに十七年十月に病死しており、県会との軋轢も表面化してきていた。すでに民権派教員はを失い、師範学校の改革が進捗し、開発主義教育の浸透が図られていた。長野県での能勢の役割は終りを迎え、十八年十月、彼は福島県師範学校長として本を去った。