函館や道南地方で、縄文のある土器が初めて現われたり、貝殻文でない文様の土器が現われるのは縄文時代早期の中ごろから後半の時期である。この時期を代表する資料が出土した遺跡は春日町遺跡と梁川町遺跡である。この両遺跡の発掘調査が実施されたのは、昭和25年8月で、春日町遺跡は児玉作左衛門を中心とする北海道大学医学部解剖学教室によって、梁川町遺跡は大場利夫の指導のもとに市立函館博物館によってそれぞれ実施された。その報告書は「函館市春日町出土の遺物について」(『北方文化研究報告』第9輯 昭和29年)と、『函館市梁川町遺跡』(市立函館博物館 昭和30年)である。ここでは春日町遺跡をもとに述べてみる。
春日町遺跡は、住吉町遺跡の所在する海岸段丘上にあって、東側は海食による崖下が海岸で、南側100メートルほどに住吉町遺跡がある。埋蔵されていた各形式の資料は地表から1メートルほどまでの間で出土した。地層の層序は上層から表土の黒色土が50センチメートルあり、次の35センチメートルの黒褐色土層に第2群土器が出土、次の20ないし30センチメートルのやや茶色を帯びた黒褐色土層に第1群土器が出土し、この層の下が洪積世の粘土層となっている。地層と出土した土器分類の関係は、表土の下部に第3群土器、黒褐色土に第2群土器、茶色を帯びた黒褐色土に第1群土器が出土し、土器形式の編年が層序で確認されている。この遺跡で古い第1群土器は、梁川町遺跡で住吉町式と呼ぶ貝殻文尖底土器の次に編年されている。
第1群土器は貝殻腹縁による尖底土器の文様に似た撚糸圧痕文の土器で、器形も貝殻文尖底土器に似ているが、平底である。いかにも貝殻文の文様をまねている。このグループには絡縄体圧痕文と微隆線の粘土で文様構成したものや、撚(より)糸を結んで器面に転がした波状文を一定間隙に施文したり、縄の条を斜めまたは羽状にあしらった縄文土器がある。土器の成形に貝殻を用いているので、内面には条痕が付いている。縄文は細くて撚りが堅く、ツルウメモドキの内皮のように丈夫な植物繊維で縄文原体が作られている。縄文原体は縄または棒に縄を巻いて器面に回転させたり、原体を押圧して施文したり、縄の文様をいろいろと工夫している。
第2群土器は、胎土に植物繊維の混入があって、竹管押引き文で施文した尖底土器と、縄文を施してから竹管押引き文を付けた尖底土器、縄文の尖底土器のグループである。竹管押引き文には、縄文の条で現われる連続する節を表現したように刺突しながら線状に施文したもの、刺突しながら少し引いて線状に施文したもの、竹管を押圧しながら線状に施文したものなどがあって、普通体部や尖底部の先端まで横位に、あたかも尖底土器を底部から縄で間隙を密にして巻き付けたような文様が多い。体部に縄文のある底部竹管押引き文の尖底土器の縄文は、縄そのものの原体を器面に回転して施文しているが、体部に横位の竹管押引き文と組合せた文様の土器もある。底部に縄文がある尖底土器は、単節斜行状縄文と呼ぶ縄の原体を横に回転して施文する斜行縄文と、右撚りと左撚りの縄を結束させた原体を回転して施文した羽状縄文がある。
第3群土器は、量的に少ないが縄文の平底土器で、縄の原体が第1群土器より太く、口縁部に単節斜行縄文のあるもの、底部に絡縄体圧痕文のあるものなどで、底部の張り出しのあるのが特徴である。
春日町第1群土器は、道南地方の縄文時代で初めに現われる縄文土器で、梁川町遺跡でも多く出土したところから梁川町式と呼ばれるようになった。その後、釧路市の東釧路貝塚などからも類似の形式が発見され、道東地方では東釧路第2群土器、第3群土器と呼ばれた。このグループには組紐を縄文原体に使用しているものもある。春日町第2群土器の竹管押引き文の平底土器は、道南地方で瀬棚郡北檜山町大谷地遺跡から出土した。大谷地遺跡では道南地方には珍しい山形押型文土器、綱文土器と共に出土し、その編年関係を地質の層位関係でとらえようと試みられたが、層序の細分と土器関係が明確でなく、土器形式の前後関係は明らかでない。大谷地遺跡の春日町第2群土器と類似の土器は、底部の小さい深鉢形土器で、底部に竹管押引き文が施文され、体部に縄文がある。この縄文は単節斜行縄文、複節斜行縄文、絡縄体圧痕文などがあり、この文様体に半截(さい)竹管をコンパスのように上部と下部を交互に回転移動して施文した特殊な文様もある。復原土器の器形は、大形で口径に比較して底部が極端に小さく不安定で、平底ではあるがそのまま置くことができない。いったいどうしてこのような不安定な平底土器が一時期に流行したのであろうか。
土器は縄文時代の生活様式によって変化したが、社会の仕組み、風俗習慣、住居構など、まだこの時期の様子はわかっていない。