集落と住居址

211 ~ 215 / 706ページ
 土器や石器が出土する遺跡を発見しても、そこに集落があったとは限らず、遺跡を発掘しても住居址に行き当ることは少ない。宅地造成や草地改良事業などで広範囲の面積を発掘した時に住居址や集落の一部を調査できることがある。近年になって広範囲な面積の発掘調査が多くなり、縄文時代の集落も少しづつ明らかになってきた。遺跡に貝塚がある場合は集落の一部として考えなければならない。貝塚になぜ人骨が埋葬されるのであろうか。遺跡には破損した土器の集積場所もある。住居や集落における廃棄との関連が考えられるが、単なる土器捨場ではなく、これが集落とどのような意味で関連しているのかが考えられるようになってきている。貝塚や土器片の集積場所の近くには住居址が発見される。遺跡の規模や領域は、遺物の分布範囲である程度の推定ができる。サイベ沢遺跡は、何回かの調査で遺跡の規模が把握されるようになったが、円筒土器文化の遺跡では、これまで住居址は数例しか発見されていなかった。しかし、近年になって函館周辺で大規模な遺跡の調査が続き、集落としてとらえることができるようになった。函館市教育委員会が昭和43年に実施した函館空港拡張工事に伴う遺跡調査もその一つである。函館空港第4地点遺跡は円筒下層式の集落址で、昭和49年にも発掘調査が続けられた。また、昭和47年の函館圏流通センター建設用地の西枯硬の調査や、南茅部町、福島町などで円筒土器を伴う遺跡の調査が行われている。昭和43年の函館空港第4地点遺跡の調査は、予算と調査期間に制約があって、まだ概報しか出されていないが貴重な調査例である。ここからは竪穴住居址が60基以上も発見され、昭和49年には更に55基が発掘されたが、これほどの住居址が同一遺跡で確認されたのは東北、北海道で最初である。
 この遺跡は現在の函館空港の東にあって、滑走路の2000メートルと2500メートル拡張区との境界にあり、海岸線から1キロメートルほど離れた中位段丘の緩やかな斜面にある。遺跡の中心部は丘陵が小高くなって、近くに湧(わき)水が流れている。発掘された住居址は、すべて土を掘って屋根をかけた竪穴住居址で、重複しているものが多かった。重複とは同一時期に重なったのではなく、比較的短期間に住居の建て直しをしたものと、かなり時間を経過してから建て直したものがあり、同一場所に2回、3回と建て直しを繰返した例も見られる。
 これら竪穴住居址から発見された土器形式が円筒下層A式とB式の二様であったことから、少なくとも2回以上住居群の移動が行われたのではないかと考えられる。住居址の大きさは、直径4メートル前後のものと6メートル前後のものがあり、全体的に見ると台地上方に4メートル前後の住居址群が分布し、傾斜地の下方に6メートル前後の住居址群が分布している。住居址が切り込まれている状態から推して3ないし4回住居群の移動があったとすると、集落を構成していた時期の戸数は多い時期で20戸、少ない時期で11戸であったろうと推定できる。戸数10ないし20戸というと、江戸時代の宝暦から天明(1751~1788)のころの銭亀沢村の戸数に相当し、一家族を4人から5人とすると、この集落の人口は40人から100人程度であったことになる。この集落の南西部に土器の集積場があって、完形土器が30個以上も出土した。またこの地点から多くの石の道具類も出土しているので、この地区は共同で作業や祭りなどを行う特定地域としての広場であったのではなかろうか。密集した住居址の配列と、特定地域の存在などを考えると、集団社会の秩序もうかがわれ、長老のような、集落をまとめたり、祭りなどを主宰する者がいて、狩猟や漁労の指揮をしたり、食糧分配などにも携わったことであろう。集落の近くに20基ほどの貯蔵穴が設けられていたが、これは漁や狩りができないときの用意に食糧を貯えることも考えていたのであろう。
 住居は円形か楕円形に土を40センチメートル程掘った竪穴式住居で、大きなものは径が6メートル、ごく小さなもので2.5メートルのものもあるが、4ないし6メートルのものが一般的である。住居址の特色は、普通内部に炉を設けているが、第4地点の住居址には炉がなく、中央の床面に直径1メートル程の浅いくぼみがあって、砂や火山灰が敷かれている。内部にベッド状の張出しが設けられているものが数例あって、棚の役割を果たしていたと思われるが、横に穴を掘った小さな物入れが造られていたものもある。屋根を支える柱は住居の内側にあり、2本から7本と一定数でない主柱と、それを支える小さな支柱から成る。普通柱の固定法は床に穴を掘って埋め込み、石などを詰めるのであるが、この遺跡では主柱を埋め込んで周囲に粘土を堅く盛り上げて柱を支えている。
 縄文前期の住居址は、函館圏流通センター建設予定地の西桔梗E1遺跡の場合、楕円形と隅丸方形の竪穴住居があり、共に中央に石組を伴わない炉が設けられている。住居の大きさは6メートル内外で、柱は住居の内側にあり、数も一定ではない。岩内の東山遺跡も竪穴住居址の大きさは6メートルで、同様に石組のない炉が設けられている。柱穴の数が一定でなく、配列も規則的でないのは、屋根の構造とも関連がある。この時期の竪穴は深さが30から40センチメートル程で、浅い柱穴に粘土と石が詰めてあったり、主柱を安定させるために床土を盛り上げたりしてあって、柱穴を深く掘って柱を土中深く埋め込むことはしなかったようである。一般的には屋根の重量を支えるためには太いしっかりした柱が必要であるが、竪穴の上に笠(かさ)状の屋根をかけた程度の住居であるから屋根のすそも自重を支え、住居内の柱にはそれほど負担をかけずに済む。住居内の炉跡は土が焼けて赤色化しているが、灰の堆積物に獣骨や魚骨があまり混入していない。これは炊事用の炉が別に戸外に設けられていて、住居内の炉は火種の保存あるいは暖房用であったと思われる。
 円筒上層式住居址は、サイベ沢B遺跡(北台地)や尻岸内町日ノ浜遺跡、同町川上遺跡などで発見されている。この時期になるとはっきりとした住居址が現われる。日ノ浜遺跡や川上遺跡の例を見ると、楕円形の竪穴の中央が更に五角形に掘り込まれており、楕円形の掘り込み部分が棚状に造られている二重構造の竪穴である。五角形の部分が住居の主体部で、炉や柱穴があり、炉には石組はないが、焼けた土が堆積している。柱は五角形部分の床の四隅に立てられ、更に一段高い楕円形の棚上部に1、2本が加えられる。西桔梗E2遺跡は円筒上層式より時期が新しいが、五角形竪穴住居址が6基発見されている。このころになると楕円形の掘り込みはなくなって竪穴の平面形が将棋の駒の形をしていて中央に炉が仕切られている。柱は内部に4本から6本配列され、炉の形は方形か隅丸方形で、その内側に自然石を縦に並べ、門歯のように配列して炉の囲いをするが、焼土と灰の堆積はあまり厚くない。この種の住居で石囲いのない炉もあるが数は少ない。サイベ沢B遺跡の竪穴住居址は、時期的に日ノ浜遺跡と西桔梗E2遺跡の中間期に当る。農道工事に伴う緊急発掘調査であったため、完全な形で発見されたのは1号住居址だけであるが、これほ五角形に近い小判形の竪穴住居で、柱穴の配列は野球のホームベースの形に似ている。炉は中央に設けられているが石組は見られない。