渡島、函館に山のように堆積された貝塚があったが、現在それが見られる場所は少ない。どうしてこれだけの貝殻が丘陵に運び込まれたのか不思議にさえ思われた。貝殻の中には現在の海岸には見られない貝もある。丘陵に堆積した貝殻の山は、多くの人たちによってかなり長期間積み重ねられたものであろう。崖の崩れた部分に層をなしている場合もあるが、多くは丘陵上に積み重ねられている。畑地などに露出していた貝塚は、函館ではアサリ坂貝塚、青柳町貝塚、湯川貝塚、煉瓦台貝塚の4か所、渡島では戸井の原木貝塚、熊別川貝塚、戸井貝塚、松前の伊勢畑貝塚、長万部の静狩貝塚の5か所で、中でも静狩貝塚は1万平方メートルにわたって貝層が50センチメートルから1メートルの厚さで堆積し、全道的にも最大規模を有していた(石灰工場でこの貝塚を採掘し、現在はほとんど壊滅した)。
函館や渡島の貝塚のほとんどは畑などに貝殻が露出していたもので、共通する時代や文化があったのではないかと考えられる。遺物包含層に貝層がある場合を除くと、縄文時代中期後半から後期の初めに広範囲に貝塚が形成されている。貝塚から出土する土器には、余市式土器と呼ばれる形式のものが含まれている。余市式土器は、余市の大谷地貝塚から出土した土器が標式となっており、下層と上層から出土した土器がある。時期的には円筒上層式土器の次に編年される。器形は円筒形の深鉢土器で、口縁部に粘土紐を帯状に口縁に並行させたり、更に上部から下部に垂直に貼付して縄や竹管で粘土紐を飾っている。これらに伴う土器で粘土紐がなく、地文に単節の斜行縄文を施し、その上に口縁に平行する縄を押圧したり、沈線で曲線的文様を付けたものなどがある。この土器形式を細分すると余市式土器と呼ばれている形式にも編年関係がある。渡島地方で余市式土器を伴う貝塚は、アサリ坂(天祐寺)貝塚、青柳町貝塚、湯川貝塚、煉瓦台貝塚、戸井貝塚、熊別川貝塚、原木貝塚、伊勢畑貝塚、静狩貝塚で、貝塚と遺跡名が付けられているほとんどの貝塚から余市式土器が伴出している。これらの貝塚を構成している貝を種類別に見ると、ハマグリ、アサリを主とするものと、タマキビ、ヒメエゾボラ、イガイを主とするものがある。ハマグリ、アサリは遠浅の砂地の海に生息し、タマキビ、ヒメエゾボラ、イガイの生息するのは岩礁性の海である。ハマグリ、アサリを主とする貝塚はアサリ坂、青柳町、湯川、煉瓦台、伊勢畑、静狩の各貝塚で、タマキビ、ヒメエゾボラ、イガイを主とするのは原木、熊別川、戸井貝塚である。このことから余市式土器の時代は遠浅の海岸や岩礁性の海岸に住んでいた縄文人が、非常に多くの貝を食べていたことがわかる。戸井町の貝塚は原木、熊別、戸井の3か所共に岩礁性貝類が多く、約1センチメートルのタマキビや5センチメートルほどの小さなイガイが厚く層をなして2メートルも堆積している。よくもこれだけ小さな貝を食べたものだと思うほどである。貝塚の貝は動物の骨に見られたように焼けた痕跡がなく、生食であったのであろう。季節的に食糧難の時代があったのであろうか。だがこれらの貝塚にはシカ、オットセイ、アザラシ、クジラなどの獣骨や多量の魚骨が混っていて、単なる季節的な食糧難に起因しているとは考えられない。縄文時代もそれ以降も、このような大規模な貝塚が形成された時期はない。この現象を渡島半島の貝塚全盛期と呼ぶことができる。貝塚には縄文人の秘められたなぞがある。一定範囲に分布する貝塚の堆積と住居址との関係、空間(広場・作業場)との関係、人骨埋葬との関係、そして海・漁労と関連する信仰や社会性との関係など、これまでにも種々な説があるがいずれも結論には至っていない。