松前渡海船の図 大宮神社総代大橋謙太郎氏より寄託(滋賀大学経済学部附属史料館保管)
しかし、こうした流通構造の変化は、海運のあり方にも決定的な変化をもたらした。すなわち、それまでの松前交易は、近江商人の手船か、あるいは共同雇用船団である荷所船が主体をなしていたが、この期に荷所船が急激に減少するとともに、旧荷所船衆が従来の賃積船経営から買積船経営へと経営を転換していった。たとえば、このころから北前船主として成長してきた、西野兵助、田中伊兵衛、小餅屋治郎兵衛、町野清兵衛、田中市左衛門、住屋清左衛門、田野中与助、酒屋新左衛門、桶屋又七、瀬戸屋弥兵衛、酒屋長吉、酒屋宗吉、右近権左衛門、出店勘助といった加賀橋立、越前河野、敦賀等の船主たちは、すベて、かつて荷所船仲間であった人たちである。(『西川家文書』)
このように買積船としての北前船は、これまでの荷所船とは異なり、船頭の意志で売買するため取引上有利な市場へ回漕する。従って従来は、近江商人の拠点となっていた江差や松前にしか入港出来なかったものが、箱館へも次第に入港することが出来るようになった。特にこのころ以来東北地方からの移住民も増加し、箱館の人口も次第にふくれあがってくると、箱館六箇場所の水産生産高がいやが上にも上昇した。そのため生産用具のみならず、あらゆる生活必需物資の需要も増大し、それによって箱館港を介する商品流通も、従来より以上に発展することとなった。
たとえば慕吏中村小一郎の寛政10年『松前蝦夷地海辺盛衰報告書』によれば、「箱館在の儀は、昆布重の家業に御座候処、以前に相替る儀これなき間、百姓共難儀の筋相聞えず、却て年増繁栄仕り候方に存じ奉り候。」といい、更に「東蝦夷地カヤべ場所の儀鯡・昆布共これ有り、箱館在の百姓共出稼の場所にて、十三四ヶ年以前迄は漁小屋三十軒程これ有り候処、此度見請け候得ば八十軒余に相成り、其上定居の場所に相成り候由にて、畑作等も出来、以前出稼の時分より村柄宜敷相見え、蝦夷地躰には御座なく候」として、箱館六箇場所が急激に発達してきたことを示している。天明元年前述のごとく旧来の6軒の問屋に加え、新たに和賀屋白鳥宇右衛門が株仲間に許可されたことも、また、同5年7名(16名ともいう)の小宿株をいっせいに認可されたことも、このような箱館を中心とした商品流通が、新たな段階を迎えていたばかりでなく、ことにこの期の箱館の経済的動向に大きな影響を与えたのが長崎俵物である。