ロシアの樺太・択捉侵寇

429 / 706ページ
 ロシア船が樺太を襲撃した知らせを箱館奉行が受けたのは、あたかも幕府が西蝦夷地を直轄して間もない4月7日であった。すなわち、それは前年9月11日、ロシアの露米商会員フォストフが、樺太オフイトマリに上陸して蝦夷の小児を捕え、更に我が国樺太東部経営の根拠地クシュンコタンに至り、番人富五郎ら4人を捕え、米・酒・煙草・木綿などを略奪し、運上屋や倉庫、図合船などの施設をことごとく焼払い、書札を残して18日に退帆した。その書札には新たに樺太島をロシアの領土とし、住民をロシア皇帝の保護下に置くという意味のことが記されてあった。樺太のこの事件は漁場を引上げた後であり、番人のうち3人は逃れたが、船は焼かれてしまったので、松前に通報もできず、翌4年3月松前藩士柴田角兵衛が同島に渡り、はじめてこの事実を知り、即時松前藩に報告し、それから更に箱館奉行に申告されたのである。
 それとほとんど同時に、今度は択捉島が襲撃された知らせが同年5月15日箱館に達した。すなわち4月23日、フォストフダヴィドフの両人は、ユノナ号アホシ号の2船を率いて、択捉島の内保(ないほ)を襲い、番人五郎次外3人を捕え、諸物をかすめて番屋を焼き、29日には紗那(しゃな)に至った。当時、紗那には調役下役戸田又太夫以下南部・津軽2藩の衛兵が駐在し、一戦を交えたが支えきれず、ときに間宮林蔵、医師久保田見達の2人が憤慨して奮戦を主張したが、又太夫これを聞かずに敗走しアリモイにて自殺した。紗那に上陸したロシア人らは米・酒、武器その他の物品を奪い、会所を焼き、5月3日帆をあげて北西に向って去った。