ゴロウニン
幕府は、文化4年フォストフらロシア人の来襲以降、北門の警備を厳重にして備えていたところ、同8年に至り、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニン少佐以下8名を、国後島で捕えるという事件が起きた。
ゴロウニンは、その年の春、ロシア皇帝の勅旨を受けて、千島南部、シヤンタル諸島および北緯53度38分以北のタタール沿岸からオホーツクまでの間の測量を命じられ、羅処和(らしょわ)島から得撫(うるっぷ)に至る諸島を測量し、5月9日には択捉島の北端に達した。そこでゴロウニン自ら上陸したところ、そこには、たまたま漂流クリール人アレキセイら8人を護送して調役下役石坂武兵衛が出向いていた。ゴロウニンは、測量の事は口にせず、武兵衛に薪水を得たいと申し出た。会談は友好的に行われたが、武兵衛は、薪水は振別会所で求めるように告げ、会所あての書状をも与えた。ゴロウニンは通訳として、アレキセイを伴い出帆したが、択捉島内の振別に向わず国後島に向った。彼は、別に当時存在が疑問とされていた根室海峡確認の目的をもっており、また、薪水も国後島の方が得やすいと考えたからである、5月26日には国後島の泊に達し、翌日ボートをおろして湾内水深の測量を始めた。
当時ここには調役奈佐瀬左衛門政辰が在勤しており、これを見るやただちに南部藩の守備兵に命じて砲撃させた。しかしゴロウニンは応戦の意志はなく、それからは絵図面や手紙をいれた小桶を海に浮ぺ、それを拾ってお互いの意志を通じ合うという、誤解を招き易い応接が始まった。その応接の間にも、ゴロウニンは、ケラムイ岬やセンペコタンに部下を上陸させ、食料を得たり採水をしたりしている。とにかく政辰の主張する小人数で上陸するならば会談に応ずるということで交渉が成立し、ゴロウニンは少尉ムール、運転手フレブニコフ、水夫4名ならびに通訳アレキセイを伴って上陸し、会所において瀬左衛門と面会した結果、彼の要求する食糧の給与は松前に伺立てた上でなければ取計らいできず、その間往復の日数を要するので、士官1名がアレキセイとともに上陸して滞在してほしいと告げた。ところがロシア人は承知せず、そのうちわが挙動に不安を感じたのか海岸に向かって逃げ出したので、瀬左衛門はこれをことごとく捕えさせたのである。
この状況を艦上から見た副艦長リコルドは、ただちに艦を進めて接近してきたので、南部藩の守備兵は砲を発してこれを迎え撃ち、彼もまた応戦したが及ばずと見て沖へ退き、同月7日リコルドは、後日死を決して必ず諸君を救出するという意味の書簡と衣服を残して去った。