観世丸の拿捕

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 丁度この時、たまたま高田屋嘉兵衛が手船観世丸に水産物を積んで択捉から箱館に向かう途中、8月14日早朝、国後島のに寄港するためケラムイ岬にさしかかった。その時巨大な異国船2隻が現われ、ボートをおろし銃を放って迫ってきた。もちろんリコルドらである。観世丸の水夫たちは驚いて海に飛び込んで溺死した者もいたが、嘉兵衛は泰然として騒がず捕われ、観世丸とともに曳航されて露鑑に横付けさせられた。
 嘉兵衛は敵意のないことを示して縛を解かせ、求めに応じて露鑑に乗り移り、露兵数十人が銃剣を手にして整列する前を、堂々と進んでリコルドに会見した。リコルドも嘉兵衛の態度に敬意を表し、主意を告げたので嘉兵衛もようやく事情がわかり、前に捕えられたロシア人らは健在である旨を知らせた。しかし、リコルドは嘉兵衛が捕虜のなかのムールの名をあげてゴロウニンのことに触れなかったため、これをも容易に信用せず、嘉兵衛のほか、釈放された漂民の身がわりとして水夫4人の連行を要求した。
 嘉兵衛は一身を犠牲にして、日露両国の確執の調停に当ることを決意し、単身赴くことを主張したが容れられず、やむなく吉三郎、金蔵、文治、平蔵の4人の外、根室アイヌ1人を同伴することになった。この間、言葉が通じなかったため交渉には2昼夜を要し、8月16日となったが、いよいよ故国を去るに当って、弟らにあてて書簡をしたため水夫に托した。危急の際の走り書きで文意を汲みとりがたいところもあるが、かえって当時の嘉兵衛の心情を如実に表現しているともみられる。
 
拙者儀、此度天運尽き候哉異国へ参り候。其方両人尚又弥吉其外の者へもあんじ候事無用。是は拙者いにしへのやくそく事とあきらめ申し候。扨々ざんねんには候得共、又一つ勘弁候事有。我は御上の段々御れんみんに相成候事、なにとぞ異国へ参り、よきつうじ(通辞)に出合、掛合致候はば、夷地もおだやかに相成可申事も有之、いつ迄所々おさわがし候ても我国のためあ(悪)しく候故、何分とらわれと相成候へば命お(惜)しき事無く、大じょぶ(ママ)にて掛合見可申積り当地にてはかれこれ申候ては甚々あしく候。ことばわからず事故、ゆい(言い)候事も相成不申、何ほどつらきめに合候とも、命さへすて候得ば相かまい候事無之候。御上の御しうい(趣意)少々は存おり候故、掛合も致事よろしく候。併し日本(の)ためあしく事は致し不申、只天下のためを存おり候故、ふはからいは致不申、一なさけなき事は人を海へ飛こませ候事甚々くやみおり候。人の拾人もころし候事ならばかようのめに合不申、船にては長松、拙者、吉蔵計り三人に御座候。手も足も出不申しばられ、よきけんぶつ(見物)物に御座候。当月十四日五ツ半時(午前七時)より今十六日迄、色々しかた(仕方)おし候得者、少々はわかり候事も有之候得共、又一向わかり不申事計におり候処、野登(能登)の物(者)に候様相聞えヲホッカと申所に廿五歳にて足いたみ罷在、是はヲロシアこと存おり候故カムサツカ迄参り、右之者をよびよせ候得ば、相分り候様しかたにてしれ申候。ヲッホカはあしき所故カミサツカへ参り右の者をよびよせ候得ば、相分り候様しかたにて覚候。是も長々のしかたにて覚候。扨又大なんぎあり、拙者一人参り候積りの処、水夫の内四人くぢ取候て、つれ行候様、是もしかたにて覚候。又此方よりもしかたにて右之事は不承知を申候所、一向聞入無之、右に付船へかへり掛合候処、参度申者も五、七人も有之、右之内金蔵事はぜひとも致度とねか(が)い、ふびんながら、是もつれ申候。吉三郎、文次、平蔵、拙者、都合五人、子モロ夷人一人、是もわけのある事と存候。甚々外者をつれ参候事なきに候あしてまよい(足手まとい)に相成、扨々込入候得共、是も無拠事と存候。右之者国元えも申達可然と存候。拙者事かまいなく商売向出精、弥吉が事頼入候。あまり心安き人も無之、江間彦八郎殿へも宜敷伝言頼入。是れはかくべつこんい(懇意)の人に御座候。其外申遣し候事無之、伊勢の善光寺へ宜敷頼入候。おふさ事は病人に候間是もあんじぬ様頼入候。金兵衛事は病人大切に可致候事。一御役人様へ是迄段々御れんみんに相成尚又此故(上)ながら宜敷奉願上候。先方便り故、なが事はあしく是よりかむさつかへ出帆。エトロフも安心可致候。定て貴様両人心づかいの事と存候。前文やくそく尚又かがなだ(加賀灘)にて大風に合ひし(死)し候よ(と)存候はば、あんじる事なく拙者も是より一日もくやみ不申、五人外に夷人、六人むつまじく致、目出度明年罷かへり可申候。とかく取みださぬ様、専一の事に存候。先者右之段あらゝゝ申遣し如此御座候。

       八月十六日                              嘉兵衛
              嘉蔵殿
              金兵衛 殿 (高田敬一著『高田屋嘉兵衛翁伝』)
 
 この書簡に見られるごとく、嘉兵衛は泰然自若として捕われて行ったが、「命さえすて候得ば相かまい候こと無之」、「日本ためあしく事は致し不申、ただ、天下のためを存おり候故、ふはからいは致不申」云々など、死を賭して当る悲壮な覚悟のほどがうかがわれる。その外、水夫や家族に対する心づかいについても、切々として胸をつかれるものがある。嘉蔵、金兵衛は弟で、弥吉は嘉兵衛の長男、おふさは妻である。なお、文中「しかたにてしれ申候」とか「しかたにて覚候」とあるのは、言語が通ぜず手まねで知ったとか覚えたという意であろう。
 嘉兵衛はまた国後島の役人にも書簡を送り、国法の禁ずる海外行きのやむを得ない事情を報告した。この書簡の中に、「五郎次へ異国人書状達し度由、昨日(八月十五日)色々せめられ、今日書状差遣し候。五郎次儀も私様子存じ申さず候へ共、只五郎次が事ばかり申居候。甲比丹モオルは死候様相心得居候。」とあるのは、五郎次がロシアに抑留中、身分を偽って中川良左衛門と称し、千島の有力者を装っていたため、リコルド五郎次の言のみを信じ、嘉兵衛のいうところを受入れなかったことを意味しているのである。また甲比丹モオルとあるのは、ゴロウニンの部下のムール少尉をさしたものと思われるが、この点も前に述べたように嘉兵衛がゴロウニンのことに触れなかったため、その生死について疑いを強くしたのであったが、こうした彼我の誤解は航海中に漸次了解された。