没収船舶及び場所処分

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 高田屋から没収した船舶は、箱館で競売にされ、福山および箱館の商人が買受けた。その落札者ならびに船名を挙げると次の通りである。
 
藤野喜兵衛(松前) 重孝丸(九九一石) 順通丸(九一七石) 広吉丸(八八八石)
岩田金蔵(松前) 大黒丸(二四三石)
林七郎兵衛・中村屋新三郎(箱館)・関東屋喜四郎(松前)三人組合 浮悦丸(一、三五一石) 広運丸(一、二八五石) 蛯子丸(八六五石) 大福丸(八五〇石) 順栄丸(八五二石) 大栄丸(三八二石)
浜田屋兵四郎(箱館) 太神丸(六二一石)
中村屋新三郎(箱館)・関東屋喜四郎(松前)両人組合 重徳丸(四三〇石)

 
 また、高田屋の請負場所は、幌泉は福島屋清兵衛根室藤野喜兵衛択捉は関東屋喜四郎・中村屋新三郎山田屋文右衛門の3人共同で請負ったが、収支償わず、天保8年に辞退したので、改めて藤野喜兵衛・西川准兵衛・岡田半兵衛の3人に命じ、印近江屋惣兵衛の屋号で匿名組合をつくり、6、2、2の割合の出資で経営したが、これまたわずか4年で罷免を願い出ている。そこで天保13年から更に松前の豪商栖原仲蔵、伊達林右衛門の2人に命じたが、栖原・伊達らはこの請負に当って、次の願書を提出している。

 
    乍恐以書付願上
 ヱトロフ御場所之義、藤野喜兵衛外両人に是迄御請負仰付けられ罷在候処、莫大の仕入嵩みに相成、行届兼候趣にて、御年季中には候得共、止む事を得ず三人より歎願申上げ候処、格別の御憐愍を以て返上仰付けられ候段承知奉り候。右に付、跡請負の義楢原並私に御書付を以て仰付けられ在り難く承知畏み奉り候。随て右御場所の義は外御場所と相違仕り、蝦夷人の内、村方と申者これ有り、是は和人同様の立振舞もこれ有り、時折花美の衣服飲喰い等杯も取扱仕り候趣、外蝦夷人共も右風儀見習候様に承知仕り候。右に付き申上げ奉り候も恐入り存じ奉り候得共、御場所取締向心配仕り候。猶叉諸仕入等も相嵩み申すべく愚考仕り候。これに依て願上げ奉り候も恐入り奉り候得共、御直差配の御名目頂戴仕り、取締向等蝦夷人共に申聞候はば、暫く承知仕るべき哉に存じ奉り候。私共儀は仰付らる通り御奉公と存じ、損益を顧みず相勤み候義に御座候得共、格別御大切の御場所柄、殊に私共儀は右御場所の様子甚だ不安内旁容易ならず心配仕り候義に御座候。且又御直差配の御名目を以て、御詰合始め蝦夷人其外問屋船手に至る迄、聊か迷惑相掛け候義は毛頭御座無く候。私共是迄御請負仕り候御場所取扱い振合に相心得、彼是願ヶ間敷は申上げず候間、何卒格別の御憐愍を以て、右御名目の義御聞済仰付けられ下し置かれ候様願上げ候
右御場所之義は御固め第一の御場所柄に付、諸仕入物等別して入念、聊か差支えこれなき様手配仕るべくと存じ奉候。右に付第一御場所の様子私共不案内の義に御座候得ば、箱館扱に付同所に引越取扱仕り候得ば、手代共に相任せ仕入物は勿論万端不行届の義これ有り候ては申訳も御座無く候。御手数の義等御座候ては重々恐入り奉り候。これに依って御当所に於いて、私共自身取扱仕り及ぶ丈け手配行届き候様仕り度く存じ奉り候。是迄藤野其外両人にて手配仕り候ても行届兼候趣に御座候得ば、猶以て心配に存じ奉り候得共、重き御書取の御趣意御奉公と存じ奉り、自身にて委く手配仕り御威光を以て御場所御請負永続仕り度く存じ奉り候。箱館表に出張仕り手代共に相任せ置候ては、其時々差図申達し候ても迚も行届兼、是のみ心配仕り候。恐れ乍ら御憐察成し下し置かれ候て、御城下扱に仰付けられ下し置かれ度く願上げ奉り候。追々仕方相付安心の場合に相成候上は、箱館え出張の義仰付けられ次第畏み奉るべく候間、何卒格別の御憐愍を以て願の通り仰付し置かれ候様、宜御執成し下し置かれ度く此段願上げ奉り候。以上
     天保十二丑年十一月
                 栖原仲蔵
                 伊達林右衛門
       町年寄四人     (伊達家文書『日記』)

 
 この文書によれば、「択捉は外の場所とちがい、アイヌのうちには村方といって、和人同様の立居振舞いをし、華美の衣服をつけ、飲み食いなども同じようにしているので、他のアイヌたちもこれを見習い、その取締り方などを心配している。そこで御直差配(藩直営)の名目をもって当れば、アイヌたちも承服するのではないかと思われる。私どもは御奉公と思い損益は考えず、御直差配の名目になっても、詰合やアイヌその外問屋船手などに、いささか迷惑になるようなことは毛頭致さず、これまでの請負場所の取扱い方の振合いに心得、かれこれ願いがましいことはしない。」といっており、多分に藩の力をかさに威圧的な取扱いを考えていることがみられる。次いでまた、「右場所はお固め第一の場所柄、諸仕入物などもわけて入念に致さねばならず、それにつけては箱館扱いにし、同所に引越して取扱うことになれば、手代共まかせになり、万端不行届になって御手数をかけるようになっては重々恐れ入るから、当所(松前)扱いにし、私ども自身で行届いた手配や差図をしたいから、格別の御憐愍で松前店扱いに願いたい」という願書である。
 これに対し、藩では直差配名目のことは承認したが、根拠地を松前に置くことは、高田屋の失脚後、非常な不況にあえぐ箱館住民の抵抗もあって、ついに許すところとはならなかった。それで栖原・伊達の両人は、更に請負人の増人を願出ているが、これも採り上げられず、次の「口達」によって両人に請負方を命じている。
 
            口達
                       伊達林右衛門
                       栖原仲蔵
ヱトロフ出店之儀、早束箱館表え差出し、万端手配仕るべき旨願出候段、箱館百姓共難渋の次第を汲取り、且は此上御手数之儀等これなき様厚く勘弁致し願出候儀と奇特の事に思し召され候。これに依て願の通り早束出店差出し万端厚く手配致すべく候事。
右ヱトロフ場所請負仰付けられ候に付、御直差配之御名目にて其方共儀差配人に仰付けられ度き旨、是又願之通り仰付けられ候。去りながら万事取扱向之儀は都て請負場所に違い候儀これ無く候間、手先のもの共迄含み違いこれ無き様相心得申すべき事。
増人願之儀は全く両人にて手配向不行届候に付願出候儀にもこれなく、箱館のもの共彼是申分もこれ有り候に付、両人にては甚だ心配に存じ、増人願出候様子に相聞き候。畢竟当壱ヶ年城下取扱い之儀、箱館に利解申聞け候に付、同所数年の不償にて連々難渋に及び候所、此上ヱトロフ出店これ無き節は、夫丈け船々入込みも薄く、米穀、荒物、小物に至る迄入不足に相成り、殊にヱトロフ店地買の品これなき節は、弥土地衰微の基に付、押して歎願願等致し候折柄、彼是雑説申振候筈に候得共、出店差出候節は箱館のもの共聊か申分これ無き筈、去り乍ら後々取締の段今般厳敷仰出され候儀に候。此度の一条其方共より出店差出候儀早束願出候に付、双方穏に相済候上は、左のみ箱館のもの共に対し心配の筋もこれ有る間敷候。これに依って増人の儀は仰付られず候事

    寅 二月                            (伊達家文書『日記』)
 右のように天保13年2月20日、町奉行三輪八郎右衛門から口達されたので、箱館奉行工藤茂五郎ならびに付添町年寄白鳥新十郎箱館に帰り、市在住民に対し「御名目店に付き心得違いのないよう」厳しい御触が出されたと伝えている。以上のことでも察せられるように、高田屋の没落後、箱館経済の不振と動揺ははげしかった。