この館(やかた、注・山田屋宅)の側の小路を通り抜けると(中略)、この通りは二十フィートないしそれ以上の幅で、一部は割石の舗道で挨は丁度掃かれておった。先達等は先に人々を並べるために派遣されたというのは、私どもが通った時には通りの両側に、人々は幾列にもなってひざまついていた。店も家もすべて戸を閉めていたが、これは全然私どものせいではなく、彼らを暖かくするためらしかった。のべつに紙張窓の続いているのは、通りを陰うつにしていた。家は皆、通りに向って入口があった。この入口の背後に、地上から三十フィートの屋根の端に切妻が立っていた。家根はぎっしりと丸石がのせられ、各棟木には内に火叩きをいれた水槽が備えていて、これは道路の他の水槽と共に防火用であった。群衆の中には一人も女や子どもは見られなかったし、大した人数でもなく騒々しくもなかった。 |
散歩中私どもは護国の丘と称せられる大きな寺に行った。これは私どもが以前見たよりも、もっと立派な日本建築術を示していた。瓦のしかれた屋根は地面から優に六十フィートの急勾配に聳えていて、塗った大柱の上に胴輪と小柱が倚(よ)りかけてあるこみいった方式によって支えられていた。彫刻と金ぱくの塗り方は以前見た何物よりも立派で(中略)、一般の配置は以前に見たものと似ていたが、入口の傍の小さな祠の内に安置された六個の石仏の上に、支那風の頭巾をあたかも暖めているようにかぶせてあって、私どもに笑いを催うさす程すこぶるこっけいに見えた。別な仏寺にも行った。これは非常に破損していて、先の大きな寺のように堂内に扁額がなかった。二、三の寺の内には銅の光輪を背にした像と、あたかも聖母の模倣のように童子を抱えた女像が安置されていた。私どもの散歩は二、三の通りを通り抜けて乗艦するために桟橋へ戻った。概してこの接待には満足した。(『ペリー日本遠征日誌』) |
とあって、ウイリアムズら一行は弁天社から高龍寺や実行寺辺を歩いたらしく、文中に「護国の丘」とあるのは、あるいは国華山高龍寺の国華山を護国山の意味に誤解したのではないかと、『ペリー日本遠征日誌』の訳者は言っている。
更に夕刻、外の数名の士官らも同様に散歩しているが、この一行は、『亜墨利加一条写』によれば、
又々山田より出かけ、弁天町、大町、内澗町と段々見廻り、夫より鎮守八幡宮へ参詣いたし、同宮神官宅前通りかかり、大工町辺え通り、大三の坂下り内澗町へ戻り、店へ立寄莨一、二服呑む程間取。其時兼ねて御触出し法度の酒樽これ有候趣。然れ共彼等望ミこれ無き候由。夫より御役所ノ坂より上り、寺町通り見廻し、山之上町上田屋稲蔵宅え立寄、住吉屋前通り相掛り、山背泊御台場え参り候趣。夫より山田屋へ帰り元舟え戻り、其時の警固御足軽、町名主両人、村田林八様、代嶋剛平様、高橋七郎左衛門様其外町々締方五、六人 |
とあって、途中一行は役人や町民の歓待を受けて、二、三の民家にも案内されたりして喜んで帰っている。
ペリー買い物の図 「亜墨利加一条写」より[1]
ペリー買い物の図 「亜墨利加一条写」より[2]
ペリー艦隊乗組員の図 「亜墨利加一条写」より