畜産

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 当時代の畜産についてみると、馬は、蝦夷地においては、官馬および警衛諸藩の用馬のほか、住民が馬を飼うことは従来通り禁止されていたが、和人地では自由に飼うことができたので、前時代から官設有珠・虻田牧場の馬の払い下げを受けて所有する者もあり、嘉永6(1853)年には、箱館に119頭、尻沢辺に5頭、亀田村に290頭の馬が飼われて使役されていた。
 これが安政3(1856)年2月、竹内、堀両奉行連署で、箱館付近に牧場を作り、また箱館市中に馬市を立て、官設牧場産の馬を競売すれば利益が多いであろうと建議して裁可を受けた。こうして翌4年5月亀田村葭川(よしかわ)野(現吉川町付近)に牧場を取立て、有珠・虻田牧場から馬を牽き入れ、なおまた市在六箇場所の馬持ちたちのうちで、持馬を売払いたい者の馬を集めて馬市を開いた。馬市は閏5月22日に開き、初日は民有馬だけを競売し、2日目は官馬47頭を払下げ、その後は日々民有官馬取混ぜて競売したが、28日までに売買したものの価は、大体3、4才の雄1頭金1両から2両3分、雌は1両2分から3両までで、最高は9両であったといい、概して官馬が民有馬より良好で、松前や江差在からの博労が多く買い取った。以降馬市は、年1回亀田で開かれ、大いに利便を与えたのはもちろん、ようやく畜産に対する認識を深めたものと思われる。
 牛は、安政の初め箱館近在で民有のものが約180頭あった。箱館開港以後外国人が食用として牛を切望してやまず、箱館奉行は当初国禁の故をもって牛の売渡しを拒み、あるいは鶏をもって牛に代えて供給したが抗し得ず、これを飼育して供給することにし、尻沢辺に牧柵を設けて市渡村、大野村などから牛を買上げ飼育した。当時の飼育経費は牛1頭につき1か年金8両3分余という。また、幕府は安政3年箱館奉行に命じ、牛牧場を設けて増殖を図り、その要望に応ずることにし、同4年雌雄50頭の牛の買入方を南部藩に依頼したが、同藩民は牛を外国人に食わせると聞いて買上げに応じなかったので、藩吏から奉行所に問い合わせ、牧牛にすることを確かめたあと買入れ、翌5年箱館に送った。そこで奉行所ではこれをまず箱館で飼育し、次いで軍川に牧場を開き、在住肝付七之丞に管理させたが、この地は熊の害が多いので廃場し、牛を箱館山に移して飼育し、外国人中、肉商を営む者に売渡したという。
 牛乳は、安政4年4月貿易事務官のアメリカ人ライスが奉行所に出願し、牛1頭を手に入れ、搾乳したのが本道の搾乳の始まりであった。更に慶応年中肝付七之丞の管理していた雌牛から牛乳をしぼって販売したが、当時その価格は1壜(びん)(4合入)金1分であったといい、これが需要されるようになったのは、病人が居留外国人医師にすすめられたためで、最初は薬とみられていた。
 豚は、外国人の需要に応ずるため、箱館で飼育したが、最初は尻沢辺に牧柵と小屋を建てて牛とともに飼育した。その後安政4年箱館蔵地のうち6000坪ほどの空地へ移し、足軽2名をおいて牛、鶏などといっしょに飼育した。
 綿羊は安政4年5月、10頭を江戸から箱館に送ってきたのが最初で、同年11月巣鴨薬園が廃止になったため、同園で飼育していた綿羊を箱館に下げ渡すという命令があり、以後数十頭送られた。はじめは奉行所内においたが、のちこれを箱館蔵地内の空地で飼育し、後に奥尻に移した。