中川五郎治
「遁花秘訣」
時に幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎が、この種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3(1820)年『遁花秘訣』と題し、わが国最初の種痘書となった。30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し『魯西亜牛痘全書』と改題して出版されている。
五郎治はのちに足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6(1835)年、同12年など数度にわたって実施して多くの人々を救った。長崎からオランダ人によって種痘術がもたらされたのは文政年間で、その実績を挙げたのは嘉永2年ともいわれ、また種痘書が中国から伝来したのが天保初年というから、それより早くに、このジェンナー式種痘が、五郎治によってこの地に入っていたことは、わが国種痘の先駆であり、その功績は極めて大きい。
五郎治の実施した方法は、天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ1箇所ずつ植えたといわれるが、異説もあって詳細は不明である。また五郎治はこれを、箱館の医師白鳥雄蔵や高木啓策にも伝授した。雄蔵は町年寄の白鳥新十郎の次男で、頼山陽に学び、のち医を業とした。そしてこの術を得て秋田に行き、藩医に伝えたので、秋田候は領内に施すことを命じている。ことに啓策のごときはこれを1年で350人に施し、みな効を奏したと伝えられている。