一方、築島には文政元(1818)年遊女屋5戸の出張を許していたが、慶応2(1866)年1つの遊廓地とし、また亀田に五稜郭が築造されたことにより、その付近に官舎を建て、郷宿、料理店なども開業されて本通りと称する町も出来た。亀田に通ずる道路に沿い市中の遊女屋営業者が出資して貸家も建てられた。しかし水がないため居住する者も少なかったという。この外に、大縄町辺にも貸家を建てる者がみられ、また北東に離れて湯川に通ずる開発の地も、安政以来農民が散在した。更に山の手方面を見れば、主に神明町に続いて新地が開け、山ノ上町の遊廓も安政5年外人の遊興が許可されたので、体裁を改めて入口に門を構え、門前の坂を「見返り坂」というようになったのもこのころからである。その他、海岸は埋立によって拡張し、山麓部もやや戸数を増した。安政5年市中で官金100両を借り、内澗町と大町の境に木戸を建てたが、すこぶる太い柱で堅固なものであったという。また市街地の裏側に当る谷地頭、尻沢辺等も開かれていった。このようにこの期の箱館の発展はめざましかった。