そのうち「蝦夷地御警衛向并御開拓」のため「屯田農兵」の制度として採用された「在住」の制度は、北方警備の緊急度からして、開拓の重要な柱とされた。東は、箱館からエトモ(室蘭)あたりまでの間に300人ほど、西は、江差からヲタスツ(寿都町内)までの間に300人ほど、あわせて600人ほどの「御目見以上以下」のもの、その子弟、そのほか「陪臣、浪人」までを家族とともに定住させ、開墾など産業の開発につとめさせる、「開発之地所」は、永久に与え、きまった家禄のほか、引越料、毎年の手当などを支給する(上は引越料100両、1か年の手当24両と12人扶持から、最低の浪人で、引越料などは実費、1か年の手当など15両)、という仕組であった(前出「書類」)。「在住」のものが農民を引連れて移住してくることが期待されており、農民が開いた土地から「在住」のもとへ年貢が上納されるようになるまでに蝦夷地が開発されて行くことを計画していたのである。実際11人の「農夫」をつれて来たり、「十余戸の民を移し」たりしている「在住」の例があった(『札幌市史』通説1)。こうした「在住」が定住して、前述のような、いわゆる口蝦夷地の地域に、小集落をつくり、ここを拠点に、奥地の方へは「勤番」として出張、警備の任に当る、この「在住」がかなりの規模で成功して行けば、諸大名の兵力に依拠した警備体制でなく、幕府直属の兵力で警備を行えるようになるであろう、と考えられていた(前出「書類」)。実際には「次三男、厄介等」で「少分之御手当」だけで「在住」をつとめるものも多く、彼らは「当人并家族」のみで開発にあたるので、なかなか開発もすすまないという実状も目立っていた(前出「書類」)。
安政3(1856)~文久2(1862)年の間に「在住」は、116人が箱館近在と蝦夷地の各地に居住するようになっていた(前出「書類」)。当初あげていた600人にもはるかに及ばず、開拓、警備に大きな力を発揮しているというほどにもなっていなかったが、幕府は、すでに、この程度の「在住」を維持する財政負担をも問題にしていた。文久2年、老中からの指示は、「在住」のものへは知行地を家禄の5割増で与え(といっても未墾地で、成墾後の見込として)、手当は従来の半分、それも5年間で打切り、という制度に改めることを検討せよ、というものであった(前出「書類」)。箱館奉行側は、この改訂に反対であり、改訂が実施された様子はないようであるが(『新札幌市史』通説1)、「在住」制をてこにして幕府の蝦夷地開拓、警備をすすめるという考え方は、重要性を持たなくなってしまっていたと言える。すでに蝦夷地の各地を諸大名に分割、給与してしまい大名領としての開拓、警備に依拠する体制が安政6年以来、とられるようになっているので「在住」制の意味は小さくなって来ていたのである。
直営的な開墾場である「御手作場」(個人的な開発を助成した場合も、この名称で呼んでいたという-『北海道史』第1)も重要であった。直営的といっても幕府直営の農場経営というのではなく、移住の旅費、家産、農具などを給与し、また3年間ほどの食料も供して開墾をすすめさせ、やがては、年貢を上納する自立した農村をつくって行こうとする保護移民の導入のかたちの開発策であった。
庵原菡斉が自費で銭亀沢村の亀尾に開発していたところを御手作場としたり、松川弁之助に取扱わせて赤川村の石川沢を開いたりしたものが初めで、文久2年では、箱館近在に11か所「農夫」300人余、ヲシヤマンベ方面に4か所「農夫」340人余という規模で御手作場が開かれていた(前出「書類」)。
箱館近在の御手作場としては、明治元(1868)年閏4月に「一村立」とされた時の史料(「箱館蝦夷地在勤中諸用留」『函館市史』史料編第1巻)に、次の8か所がある。七重村御手作場(飯田郷)、大川村御手作場(中嶋郷)、戸切地村御手作場(吉田郷)、七重村・大野村地先御手作場(鶴野郷)、三ツ谷村御手作場(三好郷)、銭亀沢村地先亀ノ尾御手作場(亀ノ尾郷)、上湯川村御手作場(鷲巣郷)、下湯川村御手作場(深堀郷)、この8か所のほかに、前出の赤川村石川沢(石川郷)、「奉行所雇吏 新妻助惣、佐々木長左衛門、大友新六が鶴野についで御手作場を開いたという木古内」(『北海道史』第1)、従来、少しの田畑があったところへ「農夫引移」し「開墾為致」せたという藤山郷のうちの城山(前出「書類」)の場合が御手作場だったとすれば(前出「慶応四年箱館地方及蝦夷地引渡演説書」によっても御手作場の諸郷とならべて、「近来郷名を唱候新村」とされている)、これらをあわせて11か所である。
この御手作場へも十分な資金上の手当はできなかったらしく、「余国」=本州方面の他国から農民を入れるのは「御入用」がかさむので、なるべく「預所人別之もの」=箱館奉行の管轄地域、地元のものに開発させるようにする、蝦夷地を大名領に分与してしまったので運上金の収納も半減し、余裕がなくなってしまった、御手作場への手当は、1年2000両を限度とし、手当支給の年限を終えたものが出て来たら、その分だけを入殖人数の増加にあてるという方法しかとれない(前出「書類」)、という程度に考えられていたのであった。
文久2年頃では、もう「御手当年限」を終えて年貢がとれるはずのところもあったが、物価高もあって生活が成立たず、かえって食料を支給したり、貸付金をおこなったりしなければならなず、年貢徴収は、まだまだ先のこととされていた(前出「書類」)。
箱館付村々の御手作場は慶応元年にすべて廃止されたともいわれるが(『札幌市史』通史1)、明治元年には、次のように記され、御手作場の名称は残っていたことが知られる。
一、手作場の儀は当時前条の通亀之尾外二ヶ所(鷲之巣と深堀)に相成、尤右三ヶ所手作場の儀は年貢をも相納候程の儀に付、当時手当は遣不レ申、其余は手作場当時一村立等に相成、又は郷名を唱罷在候分も有レ之、其侭地元村方の人別に入候もの共も有レ之、当時、手当米金差遣候もの無レ之…… |
亀之尾、鷲之巣、深堀の3か所は、年貢を上納するようになっており、そのほかの御手作場も、もう御手作場ではなく1村として自立していて、手当の米金を給与されているところは1か所もなくなっている、というのであった。
御手作場は、箱館近在だけでなく蝦夷地の各地に開かれ、前出のヲシヤマンベ辺が、かなりの規模であったほか、次の程度のことが知られる。
イワナイの御手作場は、安政4(1857)年、田1反、畑7反というほどであった(「村垣淡路守公務日記」『幕外』附録-安政4年閏5月12日の項、以下「公務日記」と表記)。
ヨイチの御手作場は、安政6年、着手。文久元年で、ヨイチ場所全体の田1080坪、畑1万0153坪のうち「御手作場開発」の分は、田45坪、畑2955坪であった(林家文書「役人廻浦の節報告」、「御手作場農夫江貸渡候諸品帳」『余市町史』資料編1)。
イシカリの御手作場の場合は、カラフトにおけるロシア勢力南下の動向、カラフトの国境交渉の状況から、蝦夷地の開発が改めて重視されるなかで、本格的な開発を意識してとりくまれたものであった。慶応2年、大友亀太郎の経営計画にもとづいて着手。毎年3000両を予算として、農民を招募、農家1戸、4人の移住に要する費用概算は約180両、毎年15戸ずつ、30か年にわたって招募をつづける計画であった。やはり予定通りの資金は投入されず、短期間のうちに幕府の崩壊ということになるので計画どおりの進捗は無理であったが、明治元年、サッポロの大友堀周辺に23戸、98人が入植、明治2年の耕地面積は、田4反4畝余、畑47町2反余となっていた(大友亀太郎文書『札幌市史』史料編1、『同』通史1)。
在住制や御手作場による開発のほか、資金を貸付けて開発を奨励する方法もとられていた。「新開町歩凡壱反ニ付金弐分弐朱」、「堀割入用百間ニ付金壱両」を貸付け、10か年で年賦返納させる、5年間は、年貢免除とし、その間は貸付金の返納をつづけさせるが、6年目からは年貢を上納させ、年賦返納の分は「被レ下切ニ取計」=免除の扱いとする、という方法であった。安政6年から文久2年の間に、この田畑新開の貸付を行った分が260町歩余もあって、最初の貸付の年から6年目にあたる元治元(1864)年からは、年貢の徴収もはじめられる予定となっていた(前出「書類」)。
また西本願寺が、農夫370人余を入れて上磯村での開発をおこなったり、東本願寺が亀田村桔梗野に農家数十戸を募り開墾をすすめた例があり、相馬藩は軍川に50余戸、石川郷に40余戸を入れて田畑数十町歩を開いた、という。箱館の商人も、近在の開発に着手しており、亀田村に字開発という地名をのこしたという(『北海道史』第1)。幕府の奨励もあって民間、その他、農業開発に力を注ぐ面があらわれていたのである。
松前藩からひきついだ時、箱館近在の農耕地は、田116町歩9反5畝、畑46万2849坪とされ、年貢米は免除、畑からの銭納(10坪に3文)138貫859文が収納分とされていた。箱館奉行は、引継後、検地をおこなわず、面積はそのまま、田の年貢71石8斗1升6合を徴収することとし、畑は従前の銭納のままとして安政5年まで徴収をつづけることとして、安政6年に検地を行って正確な石高による徴収を予定していた。しかし、凶作もつづき「人気」も検地を嫌う風であり、若干の増徴を実施しただけで(年貢米は5石6斗9升7合、畑は45貫761文の増徴)、検地は更に7年後へ延期することにされた。この間に、大野村、千代田郷、一本木郷、本郷、一之渡郷、峠下村では「古田」のそばに開かれた田が12町5反7畝あって、万延元(1860)年から年貢米3石7斗7升1石が徴収されている。三ツ谷村でも田6町9反歩が開かれ文久元年から年貢米2石7升が徴されている(前出「書類」)。
文久2年、まだ検地も実施されず、松前藩時代の徴収に若干の増徴があった程度で年貢米は、83石3斗余が徴収されている、という状況であった。慶応2年に検地が実施されたか、どうかは知ることができないが、御手作場からの年貢上納などもあり(前述)、年貢米は、少しずつ増していたようである。慶応3年の「箱館附村々収納米」は、279石余とされ(前出「箱館蝦夷地在勤中諸用留」)、水田の開発が、ややすすんでいたことをしめしているものと思われる。
箱館奉行の農業開発策のもとで、耕地面積が大規模に増大するという様子はみられなかった。御手作場への支出年額を2000両程度にとどめる、などの様子にみられるように、農業開発への大量の資金投入は考えられていなかったし、農業開発に適した良質な労働力も得にくい状況にあった。ヲシヤマンベの御手作場では、「遊惰無頼の輩」が混入していて保護期間のうちにも離散してしまう状況だった(『北海道史』第1)。七重村と藤山郷へ八王子同心の子弟らを300人ほど移住させ、農桑のこと、特に養蚕紡織につとめさせようとしたが、資金を受けとっても何の仕事もしない、徒らに酒食に消費している、調べてみたら「渡り徒士の老たる」ものや「煙草切り」のものなどが混じっていて養蚕はもとより、鍬や鋤をとったこともないと「自首」する有様であった(『匏庵遺稿』)。
幕府も、広く「在住」を募るとしながらも「陪臣之輩」をみだりに移住させるのは、「不臣」=家臣としての道を尽させないことになるので、特に見込みのあるもの以外は移住させない、と考えたり(前出「書類」)、西本願寺が「諸国門徒」のものを西本願寺の領内の人別に移して移住させる計画をしめしたとき、「諸国門徒」は、各地の「領主地頭」の「了簡」で扱われるものだとして、西本願寺の「門徒」を動員しての移住計画は、幕府に否定されてしまう、というようなことがおきていた(「安政三年十月 松前一件」龍谷大学蔵)。
幕府の財政事情のほか、農業のための移住を抑制する封建的な政治、社会的条件のもとで農業開発も十分には、すすまなかったのである。