領事館の他に箱館の居留外国人たちも家作をした。幕末の記録は断片的にみられるものの、それがどんな建物であったかまでは、よく分からない。東築島佐藤広右衛門の店子、大工栄七は文久元年6月にポーターの居宅の普請を請け負った。場所は山ノ上町新地であった。「当港におゐて英吉利居留宅の初なり」として、ポーターは翌2年4月にその完成を祝うため、奉行所の役人たちを招いている(文久2戌年正月より12月迄「各国書翰留 英仏」道文歳)。ところが、住んでみると雨漏りなどの欠陥があり完成とは見なされず、栄七は契約違反の違約金として多額の償金を命じられた。しかしそれを調達できずに身代限りを申し渡されているのである。不馴れな仕事のため、技術的に未熟であったことは免れないだろうが、それが契約という名のもとで処分を受けるとは、当時の彼には想像できたであろうか。栄七の場合は初めての洋風建築の犠牲者に思えなくもない。この栄七は池田栄七のことと思われるが、新潟生まれで運上会所の工事のために召され、安政6年以来築島に土着したという記録がある(村田専三郎「函館建築工匠小伝」『函館市史史料集』第31集)。その後栄七は慶応2年のイギリス領事館の再建計画の際も、これに関わっている。しかし領事館は設計図までできたものの、建設に至らなかった。着工までの経緯を綴ってある「英館御普請御入用留」(道文蔵)には、興味深い書類がある。栄七が在箱フランス人メルメ・カションと先のポーターの居宅を建造した時の見積書である。それには、金額に関し「ビイトロ錠前とも相除」、「硝子錠前とも相除」、「附色値段引上」という書き付けがみえる。これから、両者の家はガラスが使われ、ペンキが塗られていたことがわかる。なおカションの家は鶴岡町にあった。その他、アメリカ商人フレッチャーも家作をしている。場所は浄玄寺境内のアメリカ領事ライスの家の隣である。大工の名は七兵衛(若山七兵衛か)というが、これもまたその仕事振りが怠慢である、と記録に残っているのである。七兵衛は文久元年に箱館医学所も完成させている人物である。ライスが領事館建設を断念したのは前に述べたが、その後にそれまでの家を改築したようだ。総2階建で、「惣廻り縁付」というからぐるっとバルコニーがついていたのだろうか。これは、「生国佐渡、願乗寺前住居、大工栄八」と「生国秋田、新地住居、大工文蔵」が請け負っている(文久3亥年「魯亜仏蘭書翰留」道文蔵)。以上の例のように開港して間もない時期に、箱館ではすでに洋風建築を手掛けた職人たちがいたことは事実である。そして、このように棟梁を項点に、様々な職人、人夫が得た知識や技術が、おそらく次の時代に引き継がれていったのではないだろうか。