十月二十日

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ブリュネ筆「鷲ノ木より駒ヶ岳を望む」『函館の幕末・維新』(中央公論社刊)より

 10月20日午前、脱走軍艦隊は対外的配慮から開港場箱館を避け、箱館より10里ほど北上した噴火湾の鷲ノ木(茅部郡森町)の浜へ次々に投錨、吹雪の中を上陸を開始した。鷲ノ木は噴火湾の内懐に抱かれた浜で、箱館直行を避けて箱館を目指すには最適の地であった。まず、人見勝太郎、本多幸七郎の2人が1小隊30人を率いて箱館へ向け出発した。知府事清水谷公考へ蝦夷地開拓の趣意嘆願のためである。人見勝太郎の回想によれば、この時彼は清水谷への願書と品川沖脱走時に新政府へ提出した書面の写を携えていたという(『史談会速記禄』126輯)。
 10月20日は、榎本釜次郎率いる脱走軍艦隊北上すの報に脅える箱館府にとっても重要な1日であった。清水谷知府事が運上所に出向いて午後2時から各国岡士へ脱走軍艦隊が入港した場合の処置(「見掛次第直様打払候筈に候」)を伝えた日であった。また前日の19日には、箱館府の要請を受けた津軽藩4小隊(隊長木村杢之助)がオーガスト号で箱館港に到着、その日の内に2小隊が谷地頭尻沢辺の守衛に就いており(残りの2小隊は津軽陣屋に入る)、この日は、イギリス商船モナ号で軍事参謀試補野田大蔵率いる備後福山藩約700人(隊長岡田伊右衛門)、越前大野藩約170人(隊長中村雅之進)が到着した日であった。翌21日には一日中、御用伝馬船50艘、人夫300人で両船から軍用御品の陸揚げが行われた。箱館府兵100人余と松前藩兵若干(有川の1小隊)のみの箱館守備兵は増強されたのである。
 これより先の9月7日、新政府は箱館へ兵隊を送る計画を立て、奥羽征討軍の九条道孝、久我通久へ箱館派遣部隊の総督の人選を依頼し、翌8日(慶応から明治に改元する旨の布告書が出た日)には、次の通り諸藩へ秋田、箱館および東京への派兵を命じていた(「太政官日誌」『維新日誌』)。
 
秋田へ派兵を命じられた藩 長門萩藩(500人)、周防徳山藩(200人)、豊前小倉藩(350人)、
出雲松江藩(300人)
東京へ派兵を命じられた藩築後久留米藩(500人)、安芸広島藩(300人)
箱館へ派兵を命じられた藩備後福山藩(500人)、越前大野藩(200人)、伊予宇和島藩(500人)

 
  ただし、何らかの理由があったのか宇和島藩兵は箱館へは来なかった。
 備後福山、越前大野の藩兵はこの命令を受けて派兵されて来た兵隊であった。
 野田大蔵が本陣に宿を定めたところで、鷲ノ木の在住荒井信五郎からの次のような書簡を持って権知判事堀真五郎が本陣を訪れ、野田、堀、長谷部卓爾、十時三郎、上村熊次郎らで軍議を行なった。
 
徳川海軍、開陽(橋船十五)、回天(橋船十五)、蟠龍(橋船五)、神速(橋船三)、長鯨(橋船十五)、大江(橋船十)、回春(橋船五)、鳳凰(橋船五)
右船の内一艘当村へ懸り、夜五つ半時頃鷲木村会所より三十人程上陸致し、明朝六百人程上陸致し候に付き、湯、宿手配致し申すべき旨申出候、薪五百敷用立致すべく趣に候
   十月二十日 鷲木村荒井信五郎
(野田大蔵「胸中記」『函館毎日新聞』明治四十四年五月十三日~六月十二日連載)

 
 その結果、堀真五郎が指揮を執ることとなり、備後福山、越前大野、松前、津軽の藩兵および箱館府兵は、峠下(亀田郡七飯町)、大野(亀田郡大野町)および川汲峠(函館市と茅部郡南茅部町の境)の守備に向かった。
 一方、21日本格的に上陸を開始した脱走軍は、大鳥圭介が伝習士官隊等を率い、人見、本多のあとを追って大沼から峠下へ進み、土方歳三が陸軍隊、額兵隊等を率いて噴火湾沿いに尾札部村(茅部郡南茅部町)から川汲峠の山道を湯川へ向かっていた。22日夜、峠下の人見、本多の宿営を津軽藩兵らが夜襲し、上陸後最初の戦闘となったが、大鳥の本隊が駆け付け、箱館府の派兵は敗走した。次いで、脱走軍は峠下で隊を二手に分け、大鳥は伝習隊を率い大野村へ向かい、24日松前藩の陣屋を抜いた。藤山村から七重村へ向かった人見の率いる遊撃隊、新選組は、同日七重村における銃撃戦で苦戦したが、白兵戦を挑み箱館府派遣の部隊を破った。また、川汲峠へ向かった土方の一隊は、峠を守っていた箱館府兵を一撃で敗走させ、峠を越えて湯川へ入った。
 この間、五稜郭にあって戦況を見ていた清水谷知府事は、全軍敗北の報に接して24日夜五稜郭を出て箱館に移り、25日未明、府の首脳らと共にカガノカミ号(後に陽春艦と改称)で箱館港を脱出、その日の夕刻青森港へ入った。逃げ遅れた大野、福山、津軽の藩兵は、プロシアのタイパンヨー号を雇い上げ、25日夕刻に出帆、青森港には翌26日の昼頃着いたのである。大野藩士田村謙三の「箱館出張日記」によれば、このタイパンヨー号の1日借受料は1万5000両であったという。