船舶購入と航路の開拓

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 開拓使は当初自らのために船舶を所有し、海運部門を持ったが、北海道の海運事情からいきおい官営による海運業の創設という事を迫られた。また開拓政策の展開のなかで移民政策が意識されようになったことも付属船の整備充実ということに反映されたのである。開拓使は13年間に付属船を汽船14艘、帆船15艘の計29艘購入している(『開事』)。これらのうちで最大のものは1100トンの汽船北海丸であった。購入船第1号は庚午丸で、3年6月にプロシア商人から7万8000両という大金で購入している。バーク形汽船で旧名はボルカン号といい、慶応期から明治初年にかけて函館に何度か入港している。庚午丸の運用は開拓使用達に任された。

開拓使付属船 玄武丸 明治15年8月「開港以降入進外国船及西洋形日本船略図」新潟県立図書館蔵

 開拓使の購入した船舶の製造地は帆船が大半は国内製であるのに対し、汽船は半数が外国製造のものであった。これは国内における造船業の進展度を反映しており、我が国の造船界はまだ帆船中心であったからである。また船種別では汽船購入が初期に集中して、後半になると帆船を購入するという傾向を見せている。これは明治10年代以降民間での汽船所有が拡大してきたためである。
 明治4年9月黒田次官から要請を受けたケプロンはニューヨークのベイカーあてに書簡を送り、汽船の建造を依頼した。書簡には「北海、樺太ノ海岸ハ広漠ニシテ屡シバ暴風ノ害アリ。此船二島ノ間ニ航海スル者ナレバ、機関其他殊ニ堅牢ナルヲ要ス」(「開日」)と述べ、建造予定の船舶は船内装飾などに留意することなく、あくまで性能本位であることを強調している。こうして発注した汽船は明治5年に完成し、翌6年5月に日本に回着、それぞれを玄武丸(901トン)、矯龍丸(332トン)と命名された。玄武丸は開拓使付属船の中では北海丸(同船は明治7年に海軍省に移管)に次ぐ大型船であり、東京・函館間を頻繁に就航した。開拓使が陸軍省に提出した玄武丸の仕様は次のようになっている(「開公」1171)。
 
一 玄武丸
暗車蒸気運輸船・スクーネル形・木製・長二〇三尺 巾二八尺 九〇一トン 一〇〇馬力 洋暦一八七二年ニューヨーク於製造 上等客室六(一室二名ヲ容ル) 中等一(凡十六名ヲ容ル) 積石凡一八〇〇石
 但シ海外渡航ノ節ハ荷室予備石炭積入候ニ付積石減ズ

 
 こうして開拓使は徐々に船舶を購入して付属船の充実を図りながら道内諸港間あるいは本州との間の航路の拡充に努めた。まず明治5年4月購入した汽船稲川丸を函館支庁に属させ森・室蘭間の航路を開始した。これ以降函館支庁では付属船の扱いは運漕係(後に用度係)が管理することになった。森・室蘭航路は函館・札幌間を結ぶ「札幌本道」の中継路のため開設されたものである。同年3月から始まった函館・森間の陸路工事が完了し、道路が開通したため、その接続線として開設され10月には「森・室蘭渡航概則」が定められた。同じく同年7月には函館と樺太の南溪(クシュンコタン)の間の乗客運賃仮規則が定められ、この方面への航路も開かれた。弘明丸や雷電丸(いずれも汽船)が就航した。5年10月には函館・川内・青森航路、6年2月には青函航路が開設された。なお開拓使は付属船を直営で運航させたほかに民間の海運会社に委託して運用させる場合もあった。
 玄武丸は購入後、前に述べたように主に東京・函館間を不定期で就航している。同航路は以前は開拓使の保護下にある保任社の船舶が担当していたが、同社は7年5月に廃止されたため、その代替措置の意味も持っていた。そして8年1月には玄武丸による定期航路化が図られた。東京・函館・小樽間に4月から11月まで月1回の定期航路が開かれた。同年8月の改定旅客運賃(当初の運賃は不明)は東京・函館間が上等20円、中等15円、下等9円、函館・小樽間はそれぞれ10円、8円、5円となっている(「開日」)。同時期の三菱会社の東京・函館の運賃は同じく21円、19円、12円50銭となっており、開拓使船の運賃のほうが低廉であった。
 ところで開拓使が海運活動に乗り出した時、付属船の操舵は外国人乗組員の手によってなされた。政府から開拓使に引き渡された咸臨丸は回漕取扱所に運用を行わせたが、エチヘンとロヘルトリンの2名のアメリカ人が航海方(航海士のこと)として乗り組んでいるし(「開公」5707)、また開拓使はアメリカで玄武、矯龍の2艦を建造したが、その廻送にはアメリカ人の船長や航海士らを雇いいれた。5年11月に玄武丸の船長としてアスキンス(Askins,S.)、航海士にクラーク(Clarke,G.G.)、1等機関士にクラーク(Clarke,S.J)、2等機関士にピーターソン(Peterson,A.)らを、矯龍丸は船長にエヴァーソン(Everson,A.)、機関長にローランド(Rowland,W.)らを雇用した。これらのいわゆるお雇い外国人は高額の給料を支給された。彼らは日本回着後も国内の航路の運航のために引き続き採用された。8年に入るとアメリカ人乗組員は解雇され、両船ともシュミット(Schmidt,C.A.G. 玄武丸船長)やブルーン(Bruhn,C.L. 矯龍丸船長)などのドイツ人に交替になった(『開拓使外国人関係書簡目録』)。
 その後日本人の技術者が養成されて徐々に日本人技術者が乗り組むようになってくる。たとえば6年中には外国人船長の代わりに浅羽幸勝が一時的に船長として乗り組んでいる(「開公」5531)。彼は旧幕臣で「回天」の軍艦役を務め、維新後は海軍兵学寮の生徒の1人となっている(篠原宏『日本海軍お雇い外人』)。また同じく「千代田形」の艦長であった森本弘策は8年に雷電丸、そして10年代になると函館丸の船長となっている。7、8年の函館関係の付属船乗組員を表7-5に示した。大半の乗組員は御用掛という技術職の身分であった。出身地もさまざまであり、また士族も平民も含まれており、彼らは一定の技術を習得して付属船の乗組員として採用された。
 またこのほかに函館出身者で付属船の乗組員の代表的な人物として蛯子末次郎がいる。蛯子は天保13年に函館で蛯子半五郎の子として生まれた。武田斐三郎が教授役を勤めた諸術調所に入門して武田の門下生となり航海術を学び、文久元年には箱館奉行所亀田丸に武田とともに乗船してニコライエフスク行きを体験している。明治5年に開拓使の御用掛となりまず月俸100両で樺戸丸の船長、同年4月汽船弘明丸の船長となり青函航路に従事、8年には函館丸の船長となって同年の樺太千島交換のさいに樺太に巡航した。10年には矯龍丸、さらに玄武丸の船長を歴任した。その後大阪船舶司検所長、同地方海員審判所長などを勤めた(『北海道人名辞典』)。
 
 表7-5 開拓使付属舶の乗組員
船名
氏名
職種
月棒・身分
出身
生年
 
弘明丸
 
蛯子末次郎 
杉田源五郎
森原小太郎
木村寅吉
朝倉景春
中村長松
野村宗太郎
 
船長
運用方
機関方
運用方助
機関方手伝
水夫小頭
火夫小頭
 

25
25
16
15
14
14
 
函館
新潟
長崎
東京平民
鹿児島士族
高知県農
静岡商
 






矯龍丸宮城辰邦
榎本梅吉
藤川文次郎
小田和清蔵
小阿瀬克明
武田倦吾
准1等器械方
准2等器械方
3等運用方
准2等運用方
通訳兼翻訳方
会計方
御用掛




高知士族
東京平民
高知平民
大分平民
東京士族
石川士族
嘉永元
天保12
〃 11
天保14
安政2
嘉永2
雷電丸 森本弘策
小林秀吉
吉留伝兵衛
大倉幸三郎
鈴木美伊
高比良茂十郎
山内長敏
船長
2等器械方
3等器械方
3等運用方
 〃
准3等器械方
准2等会計方






東京平民
東京平民
鹿児島士族
東京平民
静岡農
東京平民
東京士族
天保12
天保10
天保9
天保11
天保10
天保10
文政6

 弘明丸は明治7年「職員録」、その他は明治8年「職員録」(道文蔵)より