民営の青函航路

843 ~ 846 / 1505ページ
 開拓使による官営の青函航路のほかに、ほぼ同時期に民間人による航路も開設された。6年1月青森県の用達であり、長州馬関(下関)出身の小田藤吉から次のような願書が提出された。
 
    乍恐奉伺候書付
青森県用達小田藤吉奉申上候青森港ヨリ御当港ヘ渡海ノ蒸気船無之不便ニ付諸人為便利蒸気船ヲ以テ往返仕候今般英国商人フラキストン所持ノ商船蒸気マキロータ号買請青森用途ニ相備申度奉候間此段御聞済被仰付被成下置度右御伺奉申上候以上
    外務御役所
       第三ノ五小区西河(川)町 井原兵五郎方寄留
            青森県用達   小田藤吉  印
       第二ノ二小区弁天町五六寄留 取扱人中村善造 他行中代
    河村弥平 印
    酉ノ一月九日
(明治六年「評議留」国立史料館蔵)

 
 函館支庁では5年中に中村善造が同じくブラキストンからカンカイ号を購入することを許可している前例があり、この出願は許可された。小田は許可後ブラキストンから2万4000円でマギー・ローダー号を購入したが、この汽船は5年4月にブラキストン上海で購入したもので、購入後は日本商人の傭船契約のもとで道内あるいは青森等への運送を行っていた。ところがブラキストンは経営上の問題から同年11月、函館支庁外務掛へマギー・ローダー号を始め、その他の財産の売却の斡旋を依頼してきた。これは不調に終わったため小田が購入することになったのであるが、中村善造がその仲介にあたっていた。このマギー・ローダー号は68.09トンの鉄製スクーナー汽船であり、元々は曳船であった。小田は購入後、青開丸と船名を改称し、マギー・ローダー号時代の乗組員を継続雇用した。雇用期限は1月15日から3月31日までとして、それ以後も期間更新して塔乗させた。なお船長はジョン・ウィル(彼の給料は1か月180両)、航海士はアメリカ人、機関方3名は清国人であった(明治6年「上局検印済綴込」道文蔵)。西洋形商船の購入は明治3年に公布された「商船規則」により地方庁を通じて外務省の免状が必要であったので、小田から函館支庁へ願書が提出されて、とりあえず仮免状が交付された。
 青開丸の開業に先立つ6年2月9日に青森県から大蔵省へ届けがなされ、同月12日には「青開丸航海定日運賃並為替金貸渡規則」が青森管下および近隣県へも布達されている。
 
    航海定日
一 青森港出帆 三時間着   毎月 三日 十一日 十八日 二十五日
一 函館港出帆 三時間着   毎月 八日 十五日 二十二日 三十日
    運賃定
一 乗船賃一人ニ付   上等 金三円
       中等 金二円     (後略)
(『青森県史』第六巻)

 
 このように青森県が民間事業に関して布達を出すのは異例なことに思われるが、この航海が公共的な性格を有すると解したためであろう。また青森県用達という肩書に見られるように県の支援があって開業にこぎつけたとも考えられる。ただし県から大蔵省への届けのなかでは、こうして点については触れていない。
 いずれにしても6年2月から1か月4往復の青函定期航路が開始されることになった。民営の青函定期航路としては始めてのものであった。開拓使付属船弘明丸による青函定期航路とほぼ同時期に開始されたわけである。青開丸の取扱人は函館は廻船問屋藤田長右衛門であり、青森港は新興の廻漕業者である三上卯左衛門が担当した。旅客運賃は開拓使のものと同一(ただし下等はない)であるが、貨物運賃は開拓使よりも高い。ただし弘明丸運賃と比べて多量輸送の場合には割引制度を導入している。また荷為替も合わせて行っていることが開拓使便との違いをきわだたせている。これは旅客輸送よりも貨物輸送に重点をおいたためであると考えられる。いずれにしても青函航路が両者の競合という形を取ることになったのも同航路の利用増という背景があったからにほかならない。
 開業後の小田の経営状態は不明であるが、半年後の8月に突如青開丸は青森港の取扱人であった三上卯左衛門に転売された。盛業に向かおうという時期に何故転売するに至ったのかは不明であるが、5月に中村善造がブラキストンから「雇船貨一件」につき訴えられ、小田が連帯保証人であったことや、また6月に小田が青森県の用達を罷免されていることなどから考えて金銭上のトラブルがあり、三上卯左衛門に転売したものであろう。翌7年の春にこの小田は函館から逃亡して、行方不明となっている。
 三上は小田から青開丸を購入して船名を「明津丸」と改称して引き続き青函航路に就航させている。船長ジョン・ウィルらも再び雇用されている。同人の『回想記』(當作守夫訳)によるとこの間のことが次のように述べられている。
 
 この頃、蒸気船をある日本人に売渡すことになり、国旗も変え、同様に船名もメイシン丸と変えて、青森と函館の間を航海することになっていた。彼等は、蒸気船は四日毎に青森函館間を航行することを新潟より以西の日本海の沿岸、また仙台より以東の沿岸の各所に広告をだした。これが津軽海峡を横断する、最初の蒸気船による乗客輸送の開始であった。
 夏の期間は、海峡を往復する人夫の閑散な時期であり、始めは乗客があまり多くなかった。ところが一方、郵便物は函館まで最短の地点から送られることになっていた。しかし私達が二ヶ月間航海してからは、乗客がのり始め、また郵便物も増えてきた。(中略)
 私達は海峡を横断する航海を、ただ一度だけ欠航した。一八七四(明治七年)年の約八ヶ月間私達はよくやった。乗客もますます増え、青森からの貨物もいつも大量にあった。仕事はますます盛んになるようであった。そのため日本政府の役人は妬むようになった。メイシン丸は部分的に外国所有のものであることを知っていたので、これが全部でないならば、彼らは分前を当然もらうべきであると考えた。

 
 このウィルの回想記は明治32年以降に書かれたということもあり、青開丸と明津丸との混同や、また開業を7年のこととしているなど錯綜している点があり、活況を呈した時期が6年中のことか、あるいは三上の経営時代のことか判然とはしないが、いずれにしても相当程度の利用があったことをうかがわせる。またこの中で船主が日本人と外国人と共同であったように表現しているが、元の所有者であったブラキストンが何らかの関与をしていたのかもしれない。
 ウィルによれば英人オーナーということで反英感情を持つ黒田開拓使次官の意向を受けて函館、青森両港、特に青森において妨害工作を行い、このため営業廃止においこまれたと述べている。その真偽のほどは分からないが、三上は8年5月に長崎の平田勝治なる者へ転売してしまう(「開公」5617)。短期間に青函航路から撤退したことの不透明さが残るし、妨害工作説を全面的に否定はできない。しかし開拓使船が明治7年から2船体制を取り輸送増強をとったために顧客を奪われたことや、また取扱人の力不足(函館は小田時代と同じ問屋藤田長右衛門が担当)から思うように集荷が進まなかったことが大きな要因であったのでなかろうか。