松前藩の出先機関できる

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 知内から銭亀沢周辺一帯を所管したのは慶長期末頃には設置されたとされる亀田番所であった。番所の任務は、第一に蝦夷(アイヌ)へ非分を申し掛けるのを禁止することと蝦夷地への盗買船監視で、昆布取場へ他国から直に来る船の監視、昆布採取時分より早く新昆布を商売することを停止するなど、昆布に関する規則に細心の注意が払われている(『新撰北海道史』史料一「福山秘府」所載元禄四年四月「覚」)。
 明治九(一八七六)年から実施された開拓使による地租創定事業のための調査書によると、志苔村での昆布場の割渡は、一六世紀後半にはすでにおこなわれており、戸数も七戸にも上っている。この地方の土地には早くから松前藩の支配が及んでおり、昆布は古くから重要海産物であったわけである。なお、この昆布場などの土地所有関係については一章四節に詳細に記述されている。
 元禄十三(一七〇〇)年に幕府に提出された「松前島郷帳」と「元禄御国絵図」によると、銭亀沢地区の村として石崎村、銭神沢村、汐村、しのり村、ゆの川村が「村」としてあげられている。
 享保二(一七一七)年の幕府巡見使が残した記録「松前蝦夷記」(『松前町史』資料編第一巻)によると、地元では、西蝦夷地并西在郷を「上ミ」、東蝦夷地并東在郷を「下モ」というと記しているので、東在郷の村である銭亀沢地区の村は「下モ」の村であった。現在銭亀沢地区から東の海岸線の地域をさして「下海岸」と呼んでいるのは、この「下モ」からきたものであろう。だがいつから「下海岸」と呼ばれるようになったかは定かではなく、少なくとも近世期にはみられない。