嫡流下国安藤氏の事実上の断絶を救った潮潟安藤氏の政季については既述した。この政季は「安藤太政季」と号し、享徳三(一四五四)年渡島し、蝦夷島南部の館主の頂点に立ったが、二年後の康正二(一四五六)年、湊安藤氏の尭季に迎えられて秋田男鹿島に渡ることとなった。
『新羅之記録』によれば、安藤政季は、蝦夷島を去るにあたり、「十二館」の館主間の支配版図を「守護職」補佐の方式で、「下之国」「松前」および「上之国」守護職の三ブロックに編成し直したのである。政季は、それぞれ「下之国守護」に弟の下国家政、「松前之守護」に下国定季、「上之国之守護」に蠣崎季繁(原文では武田信広とあるが蠣崎季繁が史実)を補任し、その守護職を補佐する者として、それぞれ「下之国」に河野政通、「松前」に相原政胤、「上之国」に武田信広を配置したのである。
この三守護職体制による蝦夷支配は、地域編成別にみると、「下之国」は茂別館を中核として志苔館・箱館・茂別館・中野館の四館、「松前」は大館を拠点にして、脇本館・穏内(おんない)館・覃部(およべ)館の三館、「上之国」は花沢館に拠りながら、袮保田(ねぼだ)館・原口館・比石(ひいし)館の三館という具合に、三ブロックに区画しながら、諸館連合による蝦夷支配方式を採ったのである。
この蝦夷支配方式は、換言するなら、秋田に拠点を置く「日ノ本将軍・蝦夷管領」の安藤氏が、三守護職および各領主を地域分割しつつおこなった支配方式で、それは「日ノ本将軍」-「守護職」-「館主」のタテに連なるヒエラルヒーによる蝦夷支配ともいえる。この地域分割は、前にみた地域連合のありようからみても、現実に即した支配方式であった。この頃、各館主とアイヌとの交易は、しだいにアイヌに対する収奪抑圧の形をとるようになっていた。先住のアイヌと和人との間に一触即発の危機が横たわっていた。
安藤氏は三ブロックの支配方式を編成し、そうした「夷賊の襲来」=アイヌの逆襲に対処しようとした。その衝突は、意外にも早く現実のものとなった。康正二(一四五六)年から始まるコシャマインの戦いがそれである。