志苔館の再建

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 長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いで、そのアイヌの民族的マジョリティの前に、志苔館は陥落した。この戦いに先立つ一五世紀前半、アイヌと居住空間として最も隣接する戸井館も崩壊していた。アイヌと直接的に接することになった志苔館は、石崎の「宗教ゾーン」を持つ城館でもあり、その前線的機能をより要請されたのである。
 長禄元年のコシャマインの戦いで、一端は陥落した志苔館は、長禄元年から永正九(一五一二)年の約五〇年の間に再建された。なぜなら、『新羅之記録』に永正九年四月十六日のこととして、「宇須岸、志濃里、与倉前の三館夷賊に攻め落とさる。而して河野加賀守政通の息男弥二郎右衛門尉季通、小林太郎左衛門尉良景の子弥太郎良定、小林二郎左衛門尉政景の子小二郎季景、皆生害せしむるなり」と、志苔館の陥落が伝えられているからである。
 この約五〇年の間に、第二期の志苔館は間違いなく再建された。この半世紀に志苔館は、石崎の「宗教ゾーン」を一つの宗教的砦にしつつ、昆布の浜を守る館として、一方で志苔館の支城の「与倉前館」を、他方で「弥右衛門川館」を築造したと想定される。小林氏は、志苔館から中野館間の地域連合の立場をとりながら、自らの経済的基盤を作りあげていったのである。
 しかし、永正九年には、またも康正二(一四五六)年に次ぐ大規模なアイヌの蜂起が起こり、それにより箱館(宇須岸)・志苔館・与倉前館の三館に拠る河野・小林両氏の子が戦死したのである。康正二年とこの永正九年のアイヌの攻撃によって、河野・小林両氏は父子を失うことになり、決定的な打撃を受けたことはいうまでもない。
 翌永正十年六月二十七日、またもアイヌの蜂起が発生した。松前家側の『新羅之記録』は「夷狄発向し来りて松前の大館を攻め落し、守護相原彦三郎季胤又村上三河守政儀生害せしむるなり」とし、この蜂起で「松前守護職」の相原季胤とその補佐役の村上政儀が滅亡したが、その原因をあくまでも「夷狄発向(いてきはっこう)」としている。
 永正九年から十年の蠣崎光広治世下において「下之国」「松前」「上之国」の三守護職体制のうち、「下之国」と「松前」の守護職が消失したことは確実なことである。ここに至って、蝦夷島南部の和人勢力の統一を画する蠣崎氏に全く有利な政治状況が訪れる。