小山 博(収入役職務代理)(大正2年6月19日~同年8月22日)
山田司収入役退職後、次期収入役選出までの期間、職務代理を務めた小山は宮城県本吉郡志津川町の出身、明治30年北海道庁巡査を拝命、浦河警察署管内・沙流郡佐瑠太、七飯峠下・大野市渡・木古内の各巡査駐在所勤務、明治36年4月知内巡査駐在所勤務を最後に退職し松前支庁第2課地理係に勤務、同年9月松前郡大沢村外三ケ村戸長役場に転勤、後、同44年10月27日尻岸内村書記として赴任、戸籍・兵事等の事務を担当、山田収入役退職に伴い職務代理を務め、同年8月22日佐々木伝右エ門収入役に引継ぐ。
佐々木伝右衛門収入役(大正2年8月22日~同5年9月11日)
収入役という職務は長く役場吏員を務めた人が多い中、佐々木伝右衛門は特異な経歴を持った人物である。佐々木は旧名芳太郎、東京市京橋区東湊町の生まれで私立鈴木学校卒業後商業に従事、明治24年古武井硫黄鉱山(当時、福井県の山田慎の経営していた鉱山)事務兼製錬係りとして勤務・同函館支店・同東京本店・釧路郡仙鳳趾村炭山等、鉱山業に従事、同41年9月仙鳳趾村炭山を退職、尻岸内村字古武井に転居し商業を営みながら、同45年6月村会議員に立候補当選する。大正2年3月には尻岸内村第3部長に選任、さらに同年8月22日尻岸内村収入役に選ばれ前記公職を辞して就任、村財政の切り盛りに専念するが健康がすぐれず同5年9月11日退職する。
吉田末太郎(収入役職務代理)(大正5年9月11日~同年11月22日)
佐々木収入役退職に伴い職務代理を務めた吉田末太郎は、本村字古武井の生れで明治43年1月尻岸内村役場に奉職、庶務・財政・税務を主に務め、勤勉実直な吏員として信頼が厚く、次の三好収入役就任まで佐々木の職務代理を無事務める。
三好吉松収入役(大正5年11月22日~同6年5月4日)
三好吉松は、その名が示す通り本村字根田内の生れ、明治34年4月現役軍人として旭川工兵第7大隊に入営、日露戦役に従軍大陸を転戦、凱旋後明治41年1月尻岸内消防組小頭に就任、同年8月根田内部長に選出される。後、水産物製品検査員の資格を取得、大正1年9月同検査員(道庁雇員)として務める傍ら根田内漁業組合に勤務、それらの実績をかわれ同5年11月22日尻岸内村収入役に選ばれて就任したが、在職期間僅か6ケ月で退職する。その理由については不明である。
吉田末太郎収入役(大正6年5月26日~同年9月16日)
三好収入役の突然の辞職に吉田書記は再び収入役職務代理を命ぜられたが、22日後、大正6年5月26日付で正式に収入役として発令される。吉田は当時第1科税務主任としてその手腕を買われており、且つ収入役についても職務代理者としての経験から期待されての就任であったが、惜しい哉、その職にあること僅か4ケ月にして病歿してしまう。
福成由蔵(収入役職務代理)(大正6年9月16日~同年12月28日)
目まぐるしく変わる収入役人事の狭間で、職務代理者を務めた福成は、茅部郡鹿部村の出身、明治32年税務官吏となり、札幌・宗谷・増毛・小樽・檜山・上川・室蘭の各税務署に勤務の後、同41年退職、翌42年上川郡多寄村役場に奉職、以降、厚沢部・茂別(茂辺地)・鹿部の各村役場を歴任し、大正6年5月尻岸内村役場書記を命ぜられ赴任、勧業・土木事務を担当していたが、吉田収入役の病歿により、その職務代理として出納事務を兼務、寺田収入役就任まで職務を全うする。
寺田秀一収入役(大正6年12月28日~同8年5月14日)
寺田秀一は十勝郡大津村の出身、明治44年11月砂原村役場に奉職、7年間務め財務・庶務・戸籍・教育・衛生と町村事務を一通り経験する。大正6年12月28日、吉田の後任として選任・発令、尻岸内村収入役に就任したが、同8年5月14日、一身上の理由により退職、1年5ケ月の在職であった。
杉林徳次郎(収入役職務代理)(大正8年5月14日~同年7月21日)
杉林徳次郎は尾札部村の出身で、はじめ郵政職員を目指し明治41年通信伝習生養成所へ入所修了後、椴法華・古武井郵便局・黒松内駅電信掛・尾札部郵便局勤務、後退職し大正4年9月戸井村役場に奉職、鹿部村役場に転じ、同7年10月22日尻岸内村役場書記を命ぜられ赴任、税務・財務・勧業を担当、同8年5月14日寺田の退職に伴い収入役職務代理者として同年7月21日小田桐収入役就任まで、その職を兼務する。
小田桐喜三郎収入役(大正8年7月21日~昭和6年7月20日)
小田桐喜三郎は青森県中津軽郡の出身、同郡知新尋常小学校代用教員を振出しに、明誠・大浦尋常小学校に勤務、来道し古武井・大野村島川・根田内の各尋常小学校に勤務、教師としての真摯な勤務態度・誠実な人柄をかわれ大正7年7月21日、尻岸内村会満場一致で収入役に選任・任命される。以降、村の出納事務の完璧を期したが、昭和4年の駒ヶ岳大噴火による昆布礁災害復旧投石事件(災害復旧費用に関わり村長・漁協幹部らが告訴された事件)が禍し、小田桐収入役の関与は全くなかったものの、昭和6年7月20日任期満了に伴い惜しまれながら退職する。小田桐は大正8年から昭和6年にかけ、教員から畑違いの行政・収入役に就任し村会・村民の信頼を受け3期12年を全うした。
大正期の収入役は僅か20年足らずの期間に、職務代理者(延べ)4名を含め9名もが就任している。しかも、1期4年の任期をすら満了したものは大正期最後の小田桐をおいて他にいない。尻岸内村に収入役の適任者(勿論、役場吏員を含めて)がいなかったのであろうか。例えば、職歴上を見る限りでは前記、職務代理を務めた福成由蔵などは適任者と思われるのだが。
収入役については『北海道二級町村制』、第2章 町村吏員、第1款 組織及選任の第5条に次のように規定されている。
町村ニ町村長・書記・収入役、ソノ他必要ノ附属員ヲ置キ有給トス
収入役ハ町村会ノ推薦ニ依リ北海道庁支庁長之ヲ任命シ、任期ハ四ケ年トス
収入役ノ保証金ニツイテハ町村規定ヲ以テ之ヲ定ム
・収入役は恰も町村に於ける金庫なるを以て公金保管に関し最も重責あり、之を以て収入役は町村規定の定める所に従い必ず保証金を提供せざるべからざるなり、
保証金は現金に限らず土地あるいは公債証書等を以て之を換用することを得べし。
*この金額については資料もなく不明であるが相当な額と推測される。
つまり、収入役就任については、上記に規定されているように『村会の推薦と保証金の提出』という2つの条件が満たされなければならなかったのである。村会の推薦に該当する人材は少なくはなかったと思われるが、保証金となれば、その条件を満たす人物は多くはなかったのではないか。本来、収入役はベテランの行政職が最も望ましい筈であるが、その該当者である役場吏員は薄給であり生活するのが精一杯で、収入役就任に意欲を持ったとしても、保証金を蓄える余裕などなかったのが現実である。福成由蔵もその例にもれなかったのではないかと思われる。