榎本武揚(たけあき)については、行政編の第2章、第1節大政奉還と戊辰戦争・箱館戦争・榎本政権の統治等に記しているが、ここでは榎本武揚が開拓使4等出仕として北海道調査に当たるまでの経緯と、調査の概略について『尻岸内町史・沿革史』と『榎本武揚』加茂儀一著(小樽商大)1960 中央公論社を参考に記述することとする。
幕府脱走軍の首領として明治新政府と戦い、蝦夷仮政権を樹立し総裁となった榎本武揚が箱館戦争で降伏後、朝敵という重罪犯人でありながら、兵部省(陸軍)糾問所仮監獄に凡そ2か年半服役の後、明治5年(1872)1月6日、蝦夷仮政権の役職であった松平太郎(副総裁)・大鳥圭介(陸軍奉行)・荒井郁之助(海軍奉行)・永井玄蕃(箱館奉行)・澤太郎左衛門(開拓奉行)ら5人と共に出獄を許されている。そして、同年、5月25日(新暦の6月30日)、開拓次官黒田清隆の強い推挙により開拓使出仕に任じられ、最初の仕事である北海道調査の途についているのである。なお、先の5名も榎本に先んじ、出獄後直ちに開拓使出仕を拝命、北海道へ渡っていた。
本来であれば当然極刑であった榎本の赦免については、箱館戦争の敵、政府軍の海軍参謀であった黒田清隆(薩摩藩参謀)と福沢諭吉、この2人の並々ならぬ赦免運動があったからである。特に、黒田は頭を丸めて訴えたともいわれている。
黒田のこの原動力の1つは、榎本が箱館戦争降伏勧告時、使者の箱館病院医師高松凌雲に、自らの死を覚悟して託した1冊の本、国際法を記した『海律全書』にあったといわれている。榎本の「この本(国際法)は日本が欧米の先進国と対等に国交を深めていくために、極めて重要であり戦禍で消失するに忍びない」という意図を痛切に受けとめたからである。黒田は、この1冊の本を託した行為を通し、将来の日本にとって榎本がどうしても必要な人物であると強く感じとったからであろう。
また、開拓次官に任命された黒田は、北海道開拓のためには榎本の勇気と誠実、そして西欧の深い知識、旧幕軍を率いた統率力を1日も早く必要とした。ことに、その頃(明治4年8月)、先に述べたアメリカから招聘したケプロン一行のワーフイールド、アンチセルらによる北海道内の調査を始めつつある時期でもあった。黒田としては外国人による調査以外(彼等はあくまでも御雇であり、調査終了後帰国するのである)にも、開拓に必要な学問的素養のある−つまり政策も含めて相談できる日本人を必要としていたのである。黒田は薩摩藩の有能な者を登用できたが、如何せん南国の人間である。彼が、松平ら5名の出獄者を開拓使出仕にしたのも軍将としての見識があり、北海道の土地・生活に一応は慣れていたと考えたからである。しかも、榎本にはこの5名にはない、彼が最も望む北海道開拓に必要な化学・鉱物の知識・外国語(蘭・露・英・独・仏・漢)、加えて産業技術についての洞察力を備えていると見たからである。
つまり、黒田が榎本の助命に奔走したのは、彼の1冊の本に託した日本を思う人間性と天才ともいわれた特殊能力を国家のために何とかして役立てたいという熱意であった。榎本は、黒田と開拓の方針・調査の相談(鉱山・鉱物・金銀、薬物それらの化学分析等、彼は特に化学については獄中からも第一人者であると豪語していた)を終えた後、調査に必要な品々を整え、明治5年(1872)5月25日東京を出発、新橋、横浜間開通したばかりの汽車に乗り横浜へと向かい、同26日、米国の商船エリエル号に乗船、同27日早朝北海道に向け出帆、同日午後2時仙台・金華山沖通過。明治5年5月29日(新暦7月4日)午後9時半函館港へ入港する。榎本の出立に際し黒田は横浜まで出向き見送っている。
榎本はこの旅程について『北海道巡遊日記』と称する日記を記しているが、東京出発日の明治5年5月25日より書かれ6月8日で終わっている。これは、主として、函館付近の鉱物調査の報告が主である。この日記より8日までについて主な事項のみ列挙する。
『北海道巡遊日記』より
<六月一日>、翌朝、騎馬で札幌本道(函館~札幌)の工事を視察、開削は函館から峠下村(七飯町字峠下)まで進み、峠の難所を烟硝(火薬)を使用し岩を爆破している模様を視察する。<二日>、船で当別村(上磯町字当別)の近在に石脳油(石油)の出る沢を調査する。当別泊り。<三日>、陸路函館に戻り、即、富川(上磯町字富川)の石炭の出る沢を調査するが黒石であると判明。茂辺地により粘土を調査、戸切地の粘土と混ぜ焼く。(同年、開拓使茂辺地に煉化石製造所を設立する)<四日>、曇りのため日中は報告書を作成、夜、松平らと開拓について懇談。<五日>、糠雨、東京へ書状を送る。夜、榎本道章(蝦夷仮政権の時の会計奉行)宅で札幌へケプロンと同行する道章を松平・北垣らと送別の宴を催す。<六日>、雨を冒して、上の山村(函館市神山町)の沢を下りサンドストーン砕(砂岩の礫)の堆積物を調査、亀田川辺で鼠色の粘土採取・壷を作り焼く。<七日>、糠雨のところ案内人をつけ、三森山山麓の鉛鉱を調査する。上の山村から調査用具(鍬・鋤・鑿・砕岩火薬など)を自らも携えて、沢や尾根の山道を歩き現地調査し可能性はみとめるも掘削がままならず中止。その後、湯の川の渓谷でフェベリートの粉末発見。金堀瀑(かなぼりだき)で旧幕当時の金鉱の跡を見、石英・酸化鉛を調査、鉛鉱は存在するが交通の便で採算が取れないと述べている。この日、道なき道を歩くこと十余里(四〇キロ以上)という強行軍に、宿舎の上湯の川村名主宅に到着したのが午後八時半と記されている。そして、翌日の、<八日>には、「朝八時、同所を出発、調査に向かわん。」
と記され、残念ながら日記はここで終わっている。
榎本がいつまで函館に滞在したかについては、日記が途絶えているため明確でないが、同年の8月下旬に札幌に到着したことは確かである。推測するに調査報告文の作成に追われ、『北海道巡遊日記』を記す時間的な余裕がなかったのではないか。
しかし、僅か数日間の調査日記であるが、これだけでも榎本の1日1日の精力的な調査活動、資源・鉱物等についての博学さ、また、実際に粘土を焼成し検証したり、採鉱の採算性をも視野に入れるなど、単なる科学者・技術者に止まらず実務者として、類い稀なる才能を垣間見ることができる。