『箱館六ケ場所調べ』(田中正右衛門文書)より
郷土の馬・牛の飼育数については、嘉永7年(1854年)3月『箱館六ケ場所調べ』(田中正右衛門文書)に詳細に記録されている。この調査は、『神社、庵及び備品(松明・草鞋・幕串)、戸数人口・男女別、アイヌ小屋人口・男女別、産物・数量・価格、網種別・数量、船種別・数、山川、道・山道、橋・渡し船、船泊まり、温泉場・休み所、牛馬(役所用立て)、畑・農産物など』多岐にわたるものである。この年の箱館開港ということから外国船からの攻撃や外国との不慮の事態に備えて、軍事行動をも考慮に入れ、各部落から徴発できる物品(松明・草鞋・幕串)なども含めた総合調査であると考えられる。以下、同調べより、郷土の牛馬の頭数・用立て牛馬の頭数を記す。
〈馬〉尻岸内場所 一五頭(牡馬一・牝馬一四)
但、当時用立馬数 一〇頭
同持 日浦 三頭(牡馬一・牝馬二)
但、当時用立馬数 二頭
同持 古武井 一八頭(牡馬 二・牝馬一六)
但、当時用立馬数 九頭
同持 根田内 五〇頭(牡馬五・牝馬四五)
但、当時用立馬数 三一頭
尻岸内場所 合計 八六頭(牡馬九・牝馬七七)
但、当時用立馬数 五二頭
〈牛〉同持根田内のみ 五頭(牡牛四・牝牛一)
但、当時用立牛数 二頭
『外人と村役人の問答』・恵山町ふるさと民話(第1集)より
恵山町ふるさと民話第1集(平成2年・恵山町ふるさと民話の会編)の『外人と村役人の問答』には、尻岸内村の会所に馬を借りにきた3人のアメリカ人(ペリーの一行)と、村役の人々のやり取りが、ユーモラスに描かれている。
今から、一四〇年ほど前、江戸時代の終わりころのお話です。
日本とアメリカとの間で、日米和親条約が結ばれ、静岡県の下田と、箱館(函館)の二つの港が開かれました。これまでの日本は、徳川幕府の命令により、鎖国といって外国とのつきあいを禁止していたのです。二つの港が開かれると、早速、アメリカの使節ペリー提督が軍艦ポーハタン号で箱館にやってきました。………中略………
そんなある日のことでした。三人のアメリカ人が、突然、尻岸内村の会所にやってきました。村役人の人達も、髪の色、目の色、肌の色もちがう彼等の訪問に、どうしたものかと、戸惑うばかりでした。
彼等は、ずっと歩いてきたのでしょう、少し疲れているようでした。
村役の人たちに、手まねを交えて話かけてきましたが、全然通じません。その内に、アメリカ人の一人は、足を指差してペラペラと早口で話しかけ、何かを訴えているようすを示すのですが、これも、一向に通じません。
村役の人たちも、首をひねって、彼の手まねや身ぶりを、ただ見ているばかりでした。一生懸命に村役の人たちに訴えていたアメリカ人も、自分たちの言いたいことが分かってもらえず、いささか疲れてだまり込んでしまいました。
その内に、もう一人のアメリカ人が、突然、会所前の地面に四つんばいになりました。皆は、あっけに取られ見ていると、そのアメリカ人は、首をぐいと持ち上げ、口を大きく開けて「ヒヒンー」と、馬のいななきのような声を張り上げました。
そして、三本の指を立てて見せ、その三本の指で自分と仲間二人を指差しました。
村役の人たちも、このようすから「ははあ、馬三頭、借りたいと言うことだ」と、ようやく合点し、「わかった!わかった!」と、声を出し、同じような真似をし、うなづいて見せると、三人のアメリカ人は「オゥー」と、奇声を発し、嬉しそうに村役人の肩に両手をかけてゆさぶり、日米ともに大きな声で笑い合いました。
やがて、用意された馬子の引く馬にまたがった三人は、何やら大声を上げ、身振りもよろしく愛嬌を振りまいて、恵山の方へと向かって行きました。
明治後期から大正にかけて、道庁・支庁あるいは公的機関の手により、管内の各町村の沿革史の編纂がなされてきた。その過程で古老からの聞き取り調査も頻繁に行われたと推測される。特に、大正7年(1918年)渡島教育会の編集による、函館支庁管内町村史第17章尻岸内村沿革には、村の沿革に、“古老の説話”があり、聞き取り内容が綴られている。この民話も、当時の古老の語り・伝聞から取材したものと推察する。
ペリーの『日本遠征記』には、ポーハタン号の乗組員が、北海道の火山の調査や植物の採集を行ったと記されているし、また、函館山の植物の採集・標本の作成もされている。このことからも、恵山火山の調査・植物採集の目的で尻岸内村にやってきて、馬を借りたことも事実であろう。この話から、駅馬・馬引が準備されていたが、場所は会所と離れた所に設けられていたものと思われる。