開拓使の北海道経営と海運

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 開拓使が本格的に北海道の経営に実質的に着手したのは、戊辰の役・箱館戦争終結後の、明治3年(1870年)5月、この戦いの官軍参謀で榎本軍平定に活躍した黒田清隆(註)が開拓次官として着任してからである。
 明治政府は北海道の開拓を政策の重点とし、開拓使発足に当たり中央省庁並の権限を与えた。そのためには海運が最も重要であるとして、西洋型帆船や汽船を建造・外国船を購入、さらに明治2年10月には布告を出し民間にも外国汽船の購入を奨励する。年明けて正月には、これを強化「商船規則」を発布し海運の奨励発展を促し、西洋型船の購入・建造の保護政策も示した。
 そして、明治3年6月には、東京・大阪・函館間に庚午丸−暗車バーク型鉄船とボルカン号−長さ60メートル幅8メートル、ドイツ人より購入した西洋型帆船を就航させている。
 このような政府の重点政策のもと、開拓使は明治5年2月、旧斗南藩の所有船であった安渡丸(スクネール型帆船・110トン)と下田の造船師上田虎吉の製造した石明丸(スクネール型・10馬力・6トン・価格、4千200両)を購入、さらに米国に汽船2隻を注文、ニューヨークで玄武丸(暗車スクネール型・百馬力・901トン)と矯龍丸(暗車スクネール型・百馬力・332トン)を建造、明治5年5月には函館に回航、この2隻については遠洋航海用とし大砲1門、予砲1門を備え、警備船として択捉島や樺太に就航する。6月には横浜居留の米人から汽船雷電丸を購入するなど官船の充実につとめる。
 開拓使は明治5年(1872)、函館・森間と室蘭・札幌間を開削し、森・室蘭間の航路に弘明丸(350屯汽船)と辛未丸を就航させ、本道の大動脈である函館・札幌間を陸路と海路で繋なぐ「札幌本道」の大事業を成し遂げた。一方、もう1つの大動脈、本州と北海道を結ぶ青函航路、函館・青森・安渡(現むつ)には、同6年2月に森・室蘭航路の弘明丸が就航、毎月2・6の日は函館より青森へ、4・9の日は青森から函館へ運航させるが、この航路は乗客・物資とも急増し明治7年9月からは郵便逓送を主に稲川丸も就航させる。
 なお、参考までに『開拓使日誌』に乗船賃が記されているので、就航当初の値段を抜粋し記すこととする。「乗船賃、上等3円、中等2円、並等1円50銭、等外1円、食事代、上等5銭、中等並等3銭」、食事代と比べ乗船賃は相当高額であったと思われる。
 先にも述べたが、この海運事業には民に対して官の積極的な後押しがあり、中でも三菱汽船は33隻もの官船の無償払下げを受け、明治10年(1877)の西南の役では独力で軍事輸送を行い政府の信頼を厚くし、翌11年9月には函館・根室間に定期航路を開き実績を上げる。そして、明治12年(1879)7月には、官営の『函館・青森航路』の運航を開拓使から託され、沿海の航路の権利もほぼ手中に納め三菱汽船王国を築き上げる。
 この三菱の独占企業化にともない運賃の値上げや、旅客・貨物に対するサービスの低下、商工業の発達阻害等、その弊害が表立って、海運業界から三菱に対する批判や抵抗が起こる。明治15年(1882)、堀基が北海道運輸会社を創立し三菱に対抗すると、反三菱の東京風帆、越中風船はこれに呼応し、この3社が合併し『共同運輸』を設立し、両者の競争は激化する。このような状況の中で、明治18年4月、農商務少輔森岡昌純が共同運輸社長に赴任し、その後、政府の斡旋で三菱と共同は合併『日本郵船株式会社』を設立、激しかった海運界の争いも終止符を打った。こうして北海道の海運業は官営時代から官主導の民営化、そして民営自由時代へと移行して行ったのである。
 明治37年(1904)の日本郵船函館支店、直接支配船を以下に記す。
 
 駿 河 丸  七二六屯(青森・室蘭航路)
 田子ノ浦丸  七五六屯(青森・室蘭航路)
 日 高 丸  七三五屯(青森・函館・根室航路)
 尾 張 丸  一、〇一六屯(青森・函館・根室航路)
 北 海 丸  七一二屯(函館・根室紗那航路)
 陸 奥 丸  九一五屯(函館・根室紗那航路)
 十 勝 丸  一、一一〇屯(函館・根室紗那航路)
 
命令航路 命令航路とは、官、または官の補助金を受け運行する航路のことである。
 北海道の海運の発達は、官の積極的保護政策によるものであるといえよう。
 その1号が明治7年(1874)9月からは郵便逓送(逓信省業務)を主とし青函航路に就航した稲川丸である。この逓信省命令航路の青森・函館間は、明治26年(1893)11月、室蘭まで延長され、青森・室蘭両港から1日1便、互いに出港した(北海道史年表より)。なお、この逓信省命令航路は明治41年(1908)1月、鉄道院の青函連絡船にとってかわり、比羅夫丸が1日1往復就航、4月には田村丸も就航し1日2往復となる。この両船はともにイギリスで建造、日本で初めてのタービン機関を備えた新鋭船で1,479屯の大型船であった。この就航により、明治43年日本郵船の青函航路(命令航路)は廃止された。 なお、青函連絡船の貨車輸送の業務は、大正14年(1925)5月31日、函館駅桟橋工事が竣工後、開始されている。
 この命令航路は、明治33年(1900)北海道拓殖10年計画により航路補助金186万円が計上され航路の拡大が行われた。以下、昭和12年頃の主な命令航路を記す。
 
 ① 逓信省命令航路
 ・函館樺太線(日本郵船)・函館 ペドロパブロフスク線(栗林商会)
 ② 北海道庁命令航路
 ・函館小樽線(藤山海運)・函館択捉線(金森商船)
 ・函館千島線(日本郵船)・函館根室線(島谷汽船)
 ・函館鹿部線(渡島商船)函館−尻岸内古武井椴法華尾札
  部
臼尻−鹿部 ※臨時寄港・根田内
 ③ 函館市命令航路
 ・函館北朝鮮線(島谷汽船)・函館三陸線(三陸汽船)等
 
 なお、終戦後、バス・トラックなど自動車の燃料・部品の不足により物資輸送が思うにまかせず、椴法華村長長谷内久吉らは昭和21年9月に北海道庁命令航路の開始を陳情、同年11月に函館・臼尻線が道南海運株式会社の、第一やよい丸(貨客用鋼鉄船・50屯・百馬力9ノット)で運行されることになった。
 
 (註) 黒田清隆、旧薩摩藩士。開拓次官の後、明治7年第3代開拓長官を務め、同15年内閣顧問に転出、農商務大臣、内閣総理大臣、枢密院議長を歴任。箱館戦争での仇敵榎本武揚を開拓使出仕としてとりあげる。明治33年8月25日、61歳で没。