[『田中正右衛門文書』より(市立函館図書館所蔵)]

1362 ~ 1363 / 1483ページ
 この文書の表書きには次のように書かれている。

[図]

 
 1854年 3月
 六ケ場所 寺社 備品(幕串・松 明・草鞋)
 戸数 人口(男女)産物・数量
 地形 地理 川・橋 道路・間 道
 休所・温泉場 漁業・網・船舶 牛馬
 
 嘉永7甲寅年は1854年、7月には安政元年と改元された年である。
 この年、日米和親条約神奈川条約)が締結され、伊豆下田・箱館を開港し箱館奉行を設置(翌年は幕府は蝦夷地を再び直轄)。アメリカ使節ペリーが軍艦5隻を率いて来箱、ついでロシア使節プチャーチンも来箱した年である。
 すなわち、このような国際情勢から、幕府・箱館奉行箱館周辺の海岸、とりわけ六ケ場所(小安村以東の下海岸から噴火湾沿岸、野田生までの場所)の警備を重視、実施した調査文書である。なお、直接調査に当たったのはそれぞれの村役人であり、各項目、詳細に記述しているし、又、正確であると思う。
 この調査文書より、1854年の神社・庵室(寺院)の項を拾いだしてみる。
 
 <神社>
 尻岸内持日浦  弁天小社  壱ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
 尻岸内     八幡社   壱ケ所
  〃      蛭児(えびす)小社  壱ケ所
  〃      稲荷小社  壱ケ所
                但、三ケ所共亀田村神主 藤山大膳持
 尻岸内古武井 八大龍神社 壱ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
 尻岸内持根田内 蛭児(えびす)小社  壱ケ所 但、亀田村神主 藤山大膳持
  〃  〃   稲荷小社  壱ケ所 前同断
 <庵室(寺院)>
 尻岸内持根田内 浄土宗地蔵庵 壱ケ所 但、箱館浄土宗称名寺
 
 神社について、日浦には弁天小社が1社(稲荷が合祀されていたと思われる)、尻岸内には八幡社と蛭児・稲荷の2つの小社(祠)、古武井には龍神社が1社、根田内には蛭児・稲荷の2つ小社(祠)が存在していたが、これらは神職はおかず、亀田村八幡社神主藤山大膳が神事を執り仕切っていたものと推察される。寺院については根田内の浄土宗、地蔵庵が1ケ所で、これは、現在と同じように箱館称名寺の末寺であると記されている。豊国寺の記録によれば住職は当時から存在していたとある。
 これらも含めてこの調査の報告者は、日浦(小頭)助五郎、尻岸内(頭取)利喜松・(小頭)福太郎・(百姓代)平四郎、古武井(小頭)半兵衛、根田内(小頭)乙右衛門となっており、いずれも地元の村役人であり正確であるといえる。
 なお、村名の表記であるが、郷土が幕府により尻岸内村と認められたのは、安政5年(1858年)3月からで、調査当時は「村並」であったので、公文書として尻岸内持日浦(尻岸内場所の持場日浦)のように表記したと推察する。