3、泉藤兵衛の供養塔

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 賽の河原の中央部に、正面に「南無阿弥陀仏」裏面に「明治十一年寅四月 泉藤兵衛」と刻まれた石碑が建っている。
 泉藤兵衛は、明治7年(1874)から同12年(1879)まで古武井硫黄鉱山で採掘したが実態については不明。同8年(1875)から同13年(1880)にかけて、恵山硫黄鉱山で当時としては相当の資本を投入して操業、生産高も上げるが採算がとれず撤退している。
 大畑町史には北海道開発の先覚者の1人と題し、次のように記述している。以下抜粋
 
 泉藤兵衛、文政十二年(一八二九)大畑村に生まれる。二一歳の時、問屋株式をもって分家。船問屋・材木商の事業を広げるが、倒産し蝦夷地福山(松前)に渡り磯谷歌棄の場所請負人竹屋定右衛門に雇われる。その間に菓子商を営み資金を蓄え、佐野孫右衛門より虻田礼文華の漁場を譲り受け漁業に従事する。後、箱館に転居(五稜郭築造の土木工事を請負った松川弁之助の下で土木事業を行う・別資料による)。明治八年(一八七五)村田駒吉と共同で岩内郡の硫黄鉱山に投資、財を成す(この年、恵山鉱山も操業している)。明治十三年(一八八〇)第百銀行を設立(同年函館に百四十九銀行を設立とある・別資料による)、取締役に推される。
 泉藤兵衛は事業を広げるとともに農業を重視、明治13年(1880)亀田郡大野村に田畑100町歩、故郷大畑の正津川四ツ谷に山林56町歩を有し、農林業の開拓にも力を尽くす。藤兵衛、明治28年(1895)10月28日、67歳で死去。

泉藤兵衛の供養塔(明治11年4月)(平成17年撮影)(1)


泉藤兵衛の供養塔(明治11年4月)(平成17年撮影)(2)