5代宇美第吉
〓宇美家の祖初代第吉(だいきち)は、享保年間若狭国小浜から、昆布漁を目的として蝦夷地に渡航し、鎌歌に居を構えて昆布採取を行った。出身国近江の名をとって「近江屋」を家号としていた。
第吉が定住した頃の鎌歌は蝦夷の居住地で、シンタ川附近に蝦夷の小さなコタンがあり、昆布漁をしており、定着して漁業を営む和人の極めて稀な時代であった。昆布は多く、採る人が少なかったので、採りほうだい(・・・・)という状態であった。
第吉は最初の頃は、昆布の採り方を蝦夷から習い、自ら採ると同時に蝦夷を雇(やと)って、昆布採取に専念した。採った昆布を製品にし、秋に小廻船に積んで箱館に運んで近江商人に売ったり、なぎのよい日を選んで対岸下北に運んで売ったりして宇美家の基磯を築いた。
初代第吉歿後、長男が後を継ぎ第吉を襲名し、第吉襲名は五代まで続いた。
二代第吉歿後、文政十一年(一八二八)生れの長男泰吉が家を継ぎ、三代第吉となった。三代第吉は勤勉力行の人で、好きなタバコもやめて家業に精励し、昆布漁によって蓄(たくわ)えた資金をもって、浜中に鰮漁場を経営した。豊漁が続いて大いに産をなした。下海岸クドキ節に「坂の下(お)りかけ、第吉納屋(なや)よ」とうたわれているのは、三代第吉時代の浜中の納屋である。第吉は又、植林に力を入れ、明治十二年(一八七五)頃から原木、鎌歌の山地十二町歩を買って、杉や松の苗を数万本植えた。このようにして宇美家の基礎を築いた三代第吉は、明治十九年十月、鎌歌で病歿した。
三代第吉の歿後、安政三年(一八五六)生れの玉蔵が家を継ぎ、四代第吉となった。この時玉蔵は三十一才であった。四代第吉も勤倹力行、先代の事業を守り、浜中の鰮漁場を経営していたが、鰮漁業に主力を注ぐためには、鎌歌に居住していることは不便だということになり、家族とも相談の上、浜中に居を移すことにし、明治二十七年(一八九四)祖父以来住み馴れた鎌歌を去ったのである。
この時、当主四代第吉は三十九才、五代目第吉となった豊松は二十六才、六代目を継いだ豊吉の長男藤太郎は五才であった。
浜中に居を移してからも、鰮やマグロの大漁が続き益々富を増したが、鎌歌から移ってから十年目の明治三十七年(一九〇四)七月、当主第吉が四十九才の若さで病歿した。軌道に乗った宇美家にとっては、最大の痛手であった。四代第吉には子がなく、分家の〓宇美家から勝蔵を養子としていたが、まだ幼なかったので、親族会議の結果、浜中に移って以来、四代第吉の歿するまで十年間、四代第吉の片腕となって精励した弟豊松を後継ぎにすることにきめ、豊松が五代第吉となった。この時豊松は三十六才であった。
五代第吉の時代が、〓宇美家の全盛時代であった。豊松が五代目を継いだ二年後の明治三十九年(一九〇六)夏マグロの大漁があり、一挙に一三〇〇本のマグロを漁獲した。五代第吉が宇美家の当主になった時には鰮建網二ケ統、曳網二ケ統を戸井村内で経営していたが、明治四十年(一九〇七)鰮、マグロの大漁で得た金を投じて、エトロフ島ベットブ村字ビラに四ケ所の鮭鱒漁場を設定した。この前に一時厚岸で小鰊漁場を経営したことがある。
明治四十年以来、戸井の鰮漁やマグロ漁が終るとエトロフの鮭漁に行き、それが終ると戸井に帰って鰮やマグロ漁をするというように、戸井とエトロフを往復した。大正五年(一九一六)十一月十一日、浜中で大マグロを約三五〇本漁獲して巨利を得た。こうして五代第吉の時代になってから、〓宇美家は巨萬の富を築いたのである。
館町の一角に今でも、〓の三号漁場の名の残っているところがあるが、ここは〓家が経営する以前は、函館の〓安達の仕込漁場で、中島とよばれていた伊藤金太郎という人が経営の任に当っていた。この漁場は不漁続きで採算がとれず、売るという話を聞いた五代第吉が、大正六年(一九一七)に〓安達から三萬円で買収したのである。
五代第吉が買った翌年の大正七年からこの漁場は大漁が続いたのである。こうして五代第吉はやることなすこと順調で益々産をふやしたが、漁業の不安定なことを考え、又水産業盛衰の歴史を考え、当時の状況と将来の見通しを考えて、農漁兼営が漁業の不安定と危険性を緩和(かんわ)する最良の道であるという結論になり、大正六年(一九一七)大野村に水田三十町九段、宅地一町五反九畝、山林二十町歩を買い、山には毎年杉やカラマツを植えた。
又鰮締粕の品質向上に努力し、道内や本州各府県の品評会にその製品を出品し、壱等賞を受けること数回、大正七年(一九一八)に開催された、開道五十年記念博覧会にも出品して壱等賞を受けた。第吉の刺激をうけた村内の各網元は競って品質向上に努力し、戸井の鰮締粕は全国にその名を馳(は)せたのである。
第吉は村内の各種重要役職につき、公共施設には多額の寄附をし、明治四十二年に全焼した、村役場再建の時は卒先して多額の建築費を寄附した。宮川神社改築の際には、母フメの名儀で、敷地一町三畝、宅地五十坪を寄附した。
明治三十四年(一九〇一)戸井、尻岸内、椴法華の有志で恵山汽船共同組合設立の際は、戸井村内の有志の株主を募(つの)り、設立総会には頭取に推された。
このようにして五代第吉は、あらゆる事業が順調にゆき、巨萬の資産を築き、昭和二十二年(一九四六)一月二十八日、七十七才で、その輝かしい生涯を終ったのである。
五代第吉歿後、明治二十三年(一八九〇)生れの長男藤太郎が六代目を継いだ。この時藤太郎は五十八才であった。第吉襲名は五代目で終った。
六代目藤太郎は父を助けて家業に精励したが、藤太郎が継いだ時は、鰮漁も皆無となり、太平洋戦争後の混乱期であった。その上五代第吉が大野村に買い求めた広大な水田も不在地主として、小作農民に開放され、さしも繁栄した〓家も一挙に没落した。
又藤太郎の壮年期は、父第吉が壮健で、一切の公職を一身に引受けていたため、藤太郎は父の蔭にかくれて目立たず、公職にもつかず、縁の下の力持ちとなって、父を助けたのである。こうして藤太郎は昭和三十七年(一九六二)七月十日、七十二才で病歿した。
藤太郎の歿後、長男藤蔵が七代目を継いだ。藤蔵は函館商業学校を卒業し、現在は戸井町議、東戸井漁業協同組合長、戸井町消防団長等の要職についている。
現在戸井町で宇美姓を名乗っている者は、すべて〓宇美家の別れである。金沢姓を名乗っているが〓家の祖は〓宇美家の分家である。又、〓金沢家、〓山崎家、前村長工藤健次郎家、現町長中釜家の実家などは、〓宇美家の縁戚である。