椴法華の先人

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 渡島半島の南東にあるトドホッケ村にはいつ頃から人がきたのだろうか。現在住んでいる人達の先代がくる前のことも五十年、百年と時間が過ぎると忘れられてしまうことが多くなる。そこには書かれなかった歴史がある。親の代から伝えられてきたことも、何代にもわたると伝えられてきたことに枝葉がついたり、その世代に語られた人によって内容も少しづつ変ってしまうものである。書かれた記録にも、それが特定の人であったことが多く、その人が見たり聞いたりしたことや実際にあった事柄も書く人によって違っていることがある。明治からさかのぼっていくと、北海道では文字を知らなかった人達が多かった。江戸時代では特定の人達による記録が残されている程度であるが、その土地によって、記録のないこともあるが、記録がない時代の椴法華では古から人が住んでいた。
 椴法華には何千年も前に人間が住んでいたことが、専門家の人達によってはやくから知られていた。昭和十三年の「日本文化史大系 第一巻」に、"渡島椴法華発見の尖底土器"と説明のある写真が掲載されている。八幡一郎先生が書かれた文章であるが、その所属年代は決しがたいが恐らく前期(縄文時代)の所産であろうといわれている。発見者は函館にいた能登川隆氏で、現在この土器は能登川コレクションとして市立函館博物館に寄贈となり、北海道指定有形文化財となっている。この土器は、全国でも珍らしい特色をもっていて、底が尖っている土器は北海道から関東、西日本から九州まで共通した時代の古い縄文土器である。
 日本列島がアジア大陸から離れて現在の状態になったのは、地質学的に洪積世といわれているが、洪積世が終って間もない時代の土器である。この頃、椴法華尖底土器とならんで北海道で有名なのは、函館の住吉町遺跡から出土した尖底土器であった。この土器の文様がアカガイなどの貝殼で文様がつけられているので、函館に移り住んだ人達は海洋民族ではないかといわれた。椴法華村も海岸に面した遺跡から土器が出土しているので、初めて移り住んだ先人もどこからか海を渡って住むようになったのだろう。
 道南で記録にない歴史時代の資料が、この十数年間に発見されている。その一つは函館の志海苔漁港に近いところから昭和四十三年の七月、国道改修工事で大甕に入った古銭が出てきた。大甕は三個で越前の福井県と能登の石川県で室町時代に造られたもので、古銭が推定五〇万枚が入っていたといわれている。また、同じ年に戸井町の現在庁舎が建っている館町で室町時代の館址を確認したが、その後に板碑といって供養の碑が二基発見されることになった。この形式は津軽地方の板碑に似ている。松前藩の歴史書である「新羅之記録」や「福山秘府」にもない歴史資料である。