◇榎本政権の統治
明治二年二月二十九日、歩兵頭古屋左久佐衛門を長とする本陣を森村に設け川汲より山越内に至る海岸諸村及び峠下に至る地域を管轄することを亀田村より山越内に至る諸村にふれている。この時、下海岸地域は、距離的に考え榎本政権のある亀田御役所の管轄下にあったものと考えられる。
また日時が記されていない触書であるが、資料の前後関係から考え明治二年はじめに出されたと思われる触書に、海産物の密売取締り、御役銀(税)の制度を採用し産物会所の設置に関する記事が見られる。時間的に実施されたかどうか疑問ではあるが、榎本政権が短期間にこれだけの準備をしたということは、榎本政権の弱点である財政力をなんとかしようとしていた現われであるように考えられる。(第四編行政、明治時代を参照)
◇明治二年の戦争
・二月十五日 明治新政府榎本軍の追討令を発する。
・四月九日 新政府軍、榎本軍討代のため乙(おと)部に上陸し進軍を開始
・四月十七日 新政府軍福山城を奪回
・五月十一日 新政府軍、陸海連合作戦により箱館に総攻撃をかけ両軍雌雄を決する大決戦となる。しかし後続、補給無き榎本軍、死闘するが、次第に敗色を濃くする。
・五月十八日 榎本軍降伏し五稜郭開城ようやく箱館戦争終結
◇箱館府から開拓使へ
・五月十九日 清水谷青森口総督(府知事)箱館に帰任、運上所において箱館裁判所の仕事する。
再開された箱館府(裁判所)は、箱館戦争中の被害について調査し、被害者には、米、銭等を与え、あるいは白米を低額で販売し住民の救済を図り、更に箱館市在のこの年の諸税を免除する。また榎本軍によって使用されたにせ金の回収や商人に認められた特権の廃止などが精力的に行われた。しかし、箱館府が在続したのは二ヵ月あまりで、明治二年七月八日の開拓使の設置に伴い七月二十四日箱館府は廃止された。
・明治二年八月十五日 太政官令により、蝦夷地は北海道と改められ、十一国八十六郡を置くことが公示された。この時、椴法華村は渡島国茅部郡に所属する。(尾札部村の支村椴法華村)
・九月 箱館を改めて函館とする。