亀田に番所が開設された正確な年代は詳かではないが、慶長年間(一五九六-一六一五)からといわれ、その職務とするところは、蝦夷地の出入者の検査と出入船の検査・徴税が主なもので、その役人には亀田土着の武士(地侍)白鳥氏(地位検断)が任ぜられていた。
その後、松前藩の行政体制の確立、漁業の発達、出入船の増加などにより、亀田番所は松前から直接派遣された亀田奉行が支配するようになり、(春から秋まで滞在し、あとは代官がこれに代わる)その職務内容も木古内以東亀田に至る間の行政及び蝦夷地内の漁業や商業の監督、取締りにまで及ぶようになり、のちには和人地の拡大にともない、六ヵ場所全域がほぼ行政範囲下に置かれるようになった。
六ヵ場所というのは、小安から野田追に至る沿岸を六つに分けた呼び名で、小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追に分けられていた。