次に『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録から、和人とアイヌ人の関係について記すことにする。
一 もへつ 川有、狄おとなアイニシ家十軒
一 すっほつけ 是迄一里、小川有、天神の社あり
一 一本木 川有、狄おとなヤクイン是迄三里有、狄おとな本あみ、家七軒
一 ヘきれち 是より山中とち崎へ出る道あり、家二十軒
一 あるう川 川有
一 亀田 川有、澗あり、古城有、一重塀(堀)あり、家二百軒余
一 箱館 澗有、古城有、から家あり
一 辨才天
一 亀田崎
一 しりさつふ 小船、澗あり、家七軒
一 大森 家十軒但から家有
一 湯の川 小川有、家八軒
一 しのり 澗あり、家二十四・五軒から家あり
一 黒岩 家七軒
一 塩泊 川有、狄おとなコトニ但ちゃし有家十軒
一 石崎 家十軒
一 やちまき 狄おとなコトニ持分、家十三軒から家也
一 たか屋鋪(敷) 家六軒から家也
一 おやす 家十五軒
一 塩くい(ひ)崎 狄おとなオヤワイン、家六軒
一 にともない 狄おとなヤクモイン、家五軒
一 ひゝら 船澗有
一 尻岸内 小船澗有、ヤクモタイン持分
一 ゑきしない 小船澗有、狄おとなアイツライ持分、家三軒
一 こふい から家二・三軒
一 ねたない 小川有狄おとなアイツライ
一 ゑさんの崎 焼山あり
一 とゝほつけ
一 やしろの浜 能澗有
一 ふうれへつ 小川有、澗あり
一 うたいわれ石
一 大かち
一 つきあけ
一 おさつへ 狄おとなアイツライ持分家二・三軒
一 かつくみ 小船澗有
一 ほろい瀧 是迄昆布有
一 もり 小川有
一 とち崎 狄おとなアイツライ持分家四・五軒
一 かやへ から家四・五軒
一 おとさつへ 川有、狄おとなアイツライ持分
一 のたあい とち川より八里有、新井(田)權之助商場、狄おとなサルコ
一 ゆうらつふ 川有、青山彌左衛門商場、狄おとな、ハハ(家七軒)
この資料から一六七〇年頃の亀田港は、多数の交易船が出入りし、家数も二百軒もあるほどの大村として栄えていたが、それ以外の木古内以東ゆうらつふまでの地域では、せいぜい多くとも二十軒以下の小集落であり、しかも記録の処々に狄おとな誰々持分などと記されていることからしても、当時和人とアイヌ人が雑居していたことがわかる。
更に椴法華の近隣地域では、
一 ゑきしない 狄おとなアイツライン持分
一 ねたない 狄おとなアイツライ、
一 おさつへ 狄おとなアイツライ持分
一 とち崎 狄おとなアイツライ持分
一 おとつへ 狄おとなアイツライ持分
と記されているが、おそらく寛文十年(一六七〇)頃までは、これらの地域をアイヌ人のおとな(アイヌ人の酋長)が治めていたことを示しているものと思われる。
また「のたあい」の処に新井田権之助、「ゆうらつふ」の処に青山弥左衛門商場の記録が見られるが、これは「のたあい」の知行主が新井田権之助、「ゆうらつふ」の知行主が松前藩士青山弥左衛門であることを意味しており、それ以外の「もへつ」から「おとさつへ」までの海岸線では、知行主が未だ定められていなかったことを示しているように考えられる。