前松前藩時代末には尻岸内・尾札部の両所に運上屋が設置されており、尻岸内から尾札部へ旅行する者は、尻岸内運上屋を出発し、海路又は陸路を通り椴法華へ来村し、椴法華から尾札部へは陸路がないため搔送り船によって通行した。
その後、前幕領時代となり、旧来の運上屋は会所と変わり、椴法華村に番所が見られるようになる。(前松前藩時代に設置されたものらしいが、この頃にはじめて番所の名が文献上に記される。)番所というのは会所の出先機関として、運行屋を兼ねほぼ会所と同じ役務をなしていたものである。
寛政十二年(一八〇〇)の『鈴木周介、アツケシ出張日記』によれば、「椴法華村番人武左衛門方中食是ヨリ蝦山ヘ登ル」と記しているのが見られる。
寛政十二年、山越内が蝦夷地境界となり、野田追迠の六ヶ場所(小安、戸井、尻岸内、尾札部《含椴法華》、茅部、野田追)は村並となって和人地内の交通は自由となった。このため当時の椴法華地方を往来する人も自然増加したものであろうと考えられるが、陸路は以前として椴法華・尾札部間に見られず、この間の通行は必ず船を使用しなければならなかった。
文化六年(一八〇九)の『根室秋味献上幌泉一宇堂碑名他』によれば、「根田内よりヲサツベ領椴ホツケにエサン崎山越一里、トトホツケ同所ヨリ尾札部ヘ陸路ナシ。」と記されている。