弘化二年から四年に至る(一八四五-四七)記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、弘化三年古武井村・根田内村・椴法華村に発生した山津波について次のように記されている。
扨因にしるし置に、此村(根田内)去る丙午の七月晦日夕七ツ頃より大雨にて、崖崩死亡潰家有しを友人ども委敷書取呉候をしるし置。
前後文面相略
弘化丙午七月晦日夕七ツ過に雨降出し、大雨風なくして車軸を流し聊の間もなく降続き、夜九ツ頃に至り、嶽鳴谷動して地震の様にぞ覚え居候。家居に居候心地もなく罷在候間、皆蓑笠にて外に出、只如はせんと狼狽いたし居るに、間もなく夜八半頃に至り山崖崩来り、家居潰れ怪我人死亡人数多有之候。右届出て右三ヶ村とも同じ様の事に御座候間相略し、左に人数の程しるし差上申候。
古武井村 死亡人 十三人
惣家数二十三軒の内、潰家九軒、半潰れ家一軒、村の裏山崩れ落し由、図にて申送り来り候。(中略)
根田内村 同持内、サフナイ・湯ノ下・磯屋・死亡人十五人、怪我人十二人
椴法華村 同持内、水無濱・中濱・嶋泊り、死亡人二十五人、怪我人廿四人、惣家数四十一軒の内、潰家三十軒、半潰七軒、船数七十三艘
尚此外潰れ家、潰れ船、昆布取丸小屋数多のよし。追て申来候次第申上候。
扨、此度の変事は別の事にはあらず候へども、右椴法華より嶋泊り、根田内・古武井、右二里余も相隔りて同時刻に崩れ候事、実に不思議の事に御座候哉に奉レ存候。尤椴法華より根田内までは裏山屛風のごとく切立候へども、古武井・嶋泊りに至りては左様の程の事もなき場所に御座候。
別てサフナイ・湯ノ下二ヶ所は、海中に二十間も突出いたし候。扨是に付ても平生常住も仕候事に地理大切の事に御座候哉と奉存候。
尚其節当所役人昆布の猟事に運上取立に出役致し居候白鳥孫三郎と申候人、椴法華村に止宿いたし、潰家に打れ死去いたし申候由申来候。一寸右の段申上候。しかし白鳥は未だ死去は不致候等申沙汰も有之、医師両人即刻出立いたされ候。
尚委細は後便又々申上候。
其翌春箱館に来り右白鳥某の事承申候処、其節には全快致せし由なれども、春になりて死去仕候由沙汰に御座候。
同じく弘化三年七月晦日の山津波について、明治二十一年二月二十八日・二十九日『函館新聞』所載、亀田郡沿海各村巡遊記、森下弘寄稿によれば次のように記されている。
當村は昔椴法華と稱する所は本村の位置なりしが、弘化三年丙午七月晦日夕刻より覆盆の大雨にて椴法華中濱島泊三ヶ所、山崩れの前兆ならん前后左右震動し皆々大に恐怖して退去せんとするも背後は切り立たる高山にて前面は浪打際より二間程も隔つるのみにて激浪打越次第に山は鳴響し他に逃れ去るべき地所もなく躊躇する同夜十二時頃背後の山解崩して四十一戸の内三十八戸は土中に埋没或は海中へ押出され為に、死去者も甚だ多数にして幸に逃出したるものは親を背負ひ或は子を脇挾み殊に闇夜の事なれば、岩蔭等にて助命して夜の明くるを待たれりと。
また淡斎如水著の『松前方言考』でも椴法華の「山つなみ」について記している。『蝦夷日誌』や『函館新聞』の記事は「山つなみ」発生の日を、弘化三年七月の晦日としているが、『松前方言考』では九月の晦日としており、くいちがいが見られる。恐らく正しくは七月の晦日であろう。
松前方言考の山つなみ記事
弘化三年九月晦日の夜にてやありけんエサンと云ふ處の山より遊泥を沸騰して麓なる椴法華村人家と共に押されて亡ひたり、其外近き漁村は難に遇ふ處多し此山は水脉(ミャク)と火脉と交て温泉を為す所なりしか其の夜雨いたく降りて後かくの如き変を為せりとぞ己れ按ずるに雨の勢ひ強くして火気をおひふさぎしを火気又此を破り出てかかる変をなせしにや、是なん世に謂ふ山津波にてや有けんかし。