附記

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   扨、此処に丁未(弘化四年・一八四七)五月十一日、箱館より川汲温泉へ友人を訪ひし其時の日記よりしてここに記すものなり。
   則亀田村迄の処は巻二に記す。
   故に下湯川村より筆を起す。
   扨
    箱館を出て下湯川尻村へ到るには二道有。一方は地蔵町よりうら通り大高森通り下湯川村に到る。一方は亀田村通り也。此道を本道とすれども少し廻りなるべしと覚ける。
    野道を過て
下湯川村
    亀田村より十八丁、箱館より一里半といへり。人家二十余軒。少しの市町のごとし。小商人有。旅籠屋一軒。皆此村も昆布漁の頃は浜に出て業をす。故此村も長崎納の昆布場也。村の左右草原。
    山遠くして樹木なし。畑有。村内に
明神社
   少し小高き処、森の中に在る也。
浦高札
   小流有。此傍に
温泉
   有。桶を埋て此中より涌出さすなり。昔しは此温泉熱かりし由なるが、川普請をいたす時傍の石を掘出し湯壷を大きく致せしよりして、其湯大にぬるくなりしとかや。然れども其功能はよろしと聞り。
   又此川上に凡二十丁山の麓に
鐙の湯
   と云あり。此処にしるすは蛇足に似たれ共、図にしるし置。
   弘化丁未三月比より、箱館内澗町川崎新六と云もの此山際にて見出し、是を煖し入湯せしめけるに其功験著しきが故に、其年山を少し切開き湯小屋等を立、庭中に泉水・築山等を作り、清水を引て滝をこしらへ其風景頗るよろし。余も己酉(嘉永二年)の夏是に遊びたるままここにしるし置ものなり。則湯川は此末流到るが故に古来より此名ある也と思はる。其辺奇岩怪石多し。
   乃末流なり。村を出て山の腰蘆荻の中をしばし行て
   村の端左右に道あり。両方とも上湯の川道といへども、右の方は上湯の川に出、シノリ村に到る。左りは上湯の川より川汲温泉道なり。此辺虎杖多し。行て川有。歩行渡り。また
仮橋
   をも架ること有。然れども雨降や流れ落るなり。
   川幅ひろし。転太石川原なり。越て村に到る。
  蝦夷行程記
   従亀田村     下湯川村   十六丁
   従下湯川村    上湯川村   二十丁 等なり
上湯川村
   人家三十余軒。皆畑作りにて昆布猟・鰯取等に出るなり。傍山稼人なり。村内に産神ノ社有。村の右の方山にて左り川なり。山々は近き処樹木なし。只草原なり。此処川水出るごとに岸崩落て以前より村の様子大に沿(変か)革せるよしなり。今五年もせば如何なり行やらんとあやぶまれけり。村はし少しの坂あり。上りて
   ひろき野に出る
   此処凡一里に二里斗の曠野にして、目もとどきがたし。細道は網をはりしごとく縦横になりしが故に甚迷ひ易し。凡行こと一里半斗にして、立木山にかかる。此中を行こと凡十丁斗にて
馬の背
   とも云。両方崖渓深くして樹木陰森たり。此山の長根道をしばし行九折をしばし下りて又直に上り此下なる渓は古川尻の米名の沢に出るよし。又同じ老木の繁りの中を行ことしばしにて、峠を一ッ越て九折を少し下りひろみに出て
野田府
   此名は何より生ずるものやらん。惣て松前幷蝦夷地にも処々野田府と云処有なり。何れも物さびしき山中の地なるべし。上湯の川村より三里と云り。茶屋一軒、春の末より秋の末まで出張す。酒と煙草、わらんじを売るのみなり。又行暮ものは宿をするよし。
   此処四面峨々たる高山にて、緑樹鬱然として前には底深き渓川有て是に枕、其風景いはんかたなし。
   又屋の廻りに少し畑を作り菜園とす。
   扨、それより渓川に添て行ことしばらく
   茶屋を出て五、六丁過て山の腰の細道。右の方渓川深く壁立数十丈。其川向の絶屛は恰も屛風を立しごとく、処々桟道を作りて往来をなす也。十五、六丁にて少し平地あり。此処鬯(ウツコンソウ)・款冬・熊笹多し。
 
小川
   あり。越て直
   歩行渡り過て坂にかかる
   此処崩石崖なり。雨後はあやうき道なり
九折
   数曲を登りて両傍皆熊笹にして、其尺壱丈位も有やう覚ゆるなり。行て峠に到る。此処をケナシ峠又川汲峠とも云なり。
ケナシ峠
   に到る。此処重々たる峯巒の絶頂にして、東を望めば臼・ヱトモの岬一目に見へ、南は南部巽に当り、東の千間岳・恵山、北は内浦・駒ヶ嶽、波濤の如き中に兀出し、西は渺々たる原野を隔て箱館湊を天末に望み、そのさまいはんかたなし。傍なる樹の皮を削て諸国の旅人此処を通りしものは国所性名をしるしたり。徒らのものなれどもしばらくの憩休の間にも海外の羈情をもよふさしむるものなり。
羊腸を下ること
   十八、九丁にして川端へ出る
   しばし川に添て
   行こと又一里斗にして川を歩行渡りにして湯場に到る。
 蝦夷地行程記
      従上湯川村    野田府へ     二里十一丁三十間
      従野田府     ケナシ峠下へ   一里一丁五間
      従峠下      峠上へ      十八丁四十九間
      徒峠上      温泉場へ     一里十九丁
   また是より本村へは十八丁廿間のよし也。
川汲温泉
   地形次に図するがごとし。箱館より九里と云へり。上湯川村を出て此処迄茶屋壱軒有のみ也。然し是も冬はなし。尤冬より春の中旬までは往来なし。温泉壺一つ。是を引て滝となし浴さしむ。甚熱湯也。
   水七分湯三分位なり。硫黄の気なり。上に
薬師堂
   一間に一間半位のうつくしさ堂なり。石階二十段を上り
温泉小屋
   壺壱ッ、滝一ツをこしらへたり。
長屋
   七局に切たり。渓に枕みて風景よろし。
   湯守一軒 川汲村弁吉
    文政二卯年(一八二九)十一月被仰付
    一、川汲温泉   冥加金
     文政三辰年(一八二〇)より申年迄七(ママ)年
                 納人  川汲村湯守 弁吉
     土産
      湯葉 款冬漬 花郎魚 喇哈石 椎茸 マイ茸 干蕨
 
 土人の云、此湯は昔樵夫日々此辺の山入て薪を取帰りけるに、夕方になるや否鶴一羽何かを口に啄て此川筋に下るを見し故、不思議に思ひ、其下る辺を尋探し求めけるに、則一ッの温泉有。然るに其傍の樹の枝に矢疵を負ぶたる雄鶴一羽とまり居けるが、是また二、三日を過て行見しかば其疵平愈して飛去しとかや。 則其より此温泉に功能ある事をしりて、温泉壺となし、諸人を浴せしむる等、しるしたるままここに挙もの也。
等其風景実に画けるがごとし。
 扨、わづらはしけれども、是も旅中の奇とすべき事なればしるし置に、則湯治人白鳥雄造なる者へ暇乞を致し、朝陰の間に出立致しけるに、其峠に到る比に朝靄霞霽去りがたく、四方の眺望もなく辛じて下りけり。九折凡半を過て最早崩キシと云辺りに近し比に、坂の下より丈四尺斗の羆一疋頭を振て上り来る。則余を見上凡隔こと五間位と思はるゆへ、我も致方なく三歩斗後にしさり、脇差を抜て其道より右の方の熊笹の中に人て、七、八間斗も下なる道に下りけるが、右の熊は何苦もなく坂に上り行けるに、さて余も此坂道へ下り、上へ見上れば熊は頭を振て上りけるにぞ、心安堵して三、四丁も下り、凡平垣の場に至る時になりてより、戦栗(慄)甚しく身毛立て漸恐怖の心さし出けるも、又二度の狼狽とぞ云べし。彼熊に逢し時は少しも驚く気志なかりしば、累年蝦夷地にて飼熊も手なづけ日々食物等を与へて見居し故に、少しの驚もなかりしなるか、又は心肝狼狽の余りに驚かざりしか、漸此処に至りて初て驚きしは丈夫の心さし無ことぞと思けるが、是より又七、八丁も小走にて早く野田府迄到らんと急ぎげるが、其平坦の処に小川の流れ一筋有に、此川端五、六間に到てみれば又ぞろ一疋の豪羆流にて水を呑けるに、嗚呼此度こそ神に誓ん如何はせんと、五、六歩戻りて款冬と笹の下陰よりよくよく見れば大なる黒岩なり。さては是にて安堵と思ひ行けるに、其より平坦五、六丁行間は木の切株の黒き処皆羆熊の蹲踞様にぞ見へしも、わが志気の不丈夫よりの事ぞと思ける。扨是より一軒茶屋に来り、漸五ッ半頃なるが憩ひければ、主人余の面色を見眺居り故に右の様を語りけれぱ、さてよ面色尋常ならざりきと云れたり。
 右の茶屋の主人の申けるに、此山に六本指の羆壱疋住り。是は此山の神と申べし。雪の朝は間々此辺に出る事あり。其六本指の方は、手の平壱尺五寸斗有と云れけり。此山にて昔より熊にとられし人はなし。又逢し人も稀なりが、今日はよく災難を遁れたりとて語られけり等の事を思へば、此一軒屋に住る人こそ其羆熊よりも恐ろしき志にてなくば住こと能はざりけるぞかし。扨此処にて書状を認て、川汲役行の人にても有ば白鳥某へ此事申送らんと茶屋へ托して立帰りけり。扨、其翌箱館旅亭に有けるに、川汲より書状到来開き見るや、其一条の事呉々も無事にて帰し事を祝して、同行致せし備後国書生井口赤嶂なるものより贈られける。爰に出すも煩雑なれども、又取すてんも意なくんば、後にしるし置ものなり。
 丁未夏日。余與松浦子重在函浦。相挈浴温泉干河汲。其為道也蜀険数十里。老木接枝人馬纔通。而猛獣之跡歴々可認。終日之苦難不復是筆状也。間一日子重先帰結束将上程羣嶽之巓。酸霧叢散物色未可審焉。而子重毫無阻色。踏鞋直行々数里。逢豪羆當路来。輙提剣傍出而過之。羆雖猛哉亦収威不敢動。巳而兼歩下山。則大羆又怒立乎道与其大幾倍乎前者。其状如窺山人者逡巡。而審視之則黒石獣立也。未牌終達函浦云。臣有氏日。子重曏提刀傍出者先奪彼気也知也矣。今仲立不敢進者重身也敬也矣。雖一時卒遽之間知与敬幷行。其勇可知。而子重之為人不復假言也。余之与子重之交雖歳月不甚深情好不多譲陳雷。故其情状頗得相窺焉。嗚呼子重亦丈夫也哉。                           阿岐 井口較誌
等因にしるし置ものなり。閲者心してよみ給ひかし。          資料 函館市史史料編第一巻