[アイヌの戸口]

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 蝦夷地アイヌは、二万人ないし四万人であったという。文化年間(一八〇四~一八一七)の記録には、松前居住四五〇余人と記され、松前のほか五、九一〇余戸、二六、三五〇余人であった(「蝦夷草紙」)。
 松前 福山、箱館、江差三カ所付 東西村調(市立函館図書館所蔵)によれば、文化六巳年(一八〇九)改、箱館東海岸六箇場所 家数四〇八軒 人数一、七一六人、蝦夷家一二八軒 人数四一七人であった。アイヌの戸口の内訳は、尻岸内領四六軒二〇一人、尾札部領二六軒一三一人、臼尻持三六軒一三二人、鷲ノ木五軒二一人、森一五軒五六人、野田追領三〇軒一一七人と記されている。
 アイヌの戸口の減少の理由として挙げられているものに、和人の増大に抵抗した抗争で戦死したり処刑されたことと、和人に苦役を強いられたために男性の死亡が多かったという。そして粗末な食糧事情のため飢饉の年に餓死するものが多かった。
 アイヌが最も恐れたのは、和人の増大によって持ち込まれた痲疹・梅毒・疥癬・天然痘などの伝染病であった。伝染病に抵抗力のなかったアイヌの人たちは、痲疹や天然痘の蔓延によって激減したといわれる。