[郷土の戸口]

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 郷土の戸口(戸数と人口)の変遷は、まさに郷土発展の過程を示す数値であるともいえる。多くの北海道の史書の中に、郷土の戸口が記録されているものは極めて少ない。郷土の民俗を伝えるもっとも古い著書である菅江真澄の「えぞのてぶり」にも、郷土の家数や人口は記録されていない。
 遠く一六、七世紀には、すでに昆布を採るため多くの和人が渡海して箱館から下海岸、恵山、尾札部、鹿部辺まで往来していたという。元禄年間には亀田八幡宮昆布を採る人たちの安穏祈願のため、毎年神楽が奉納された記録(神道大系「亀田八幡宮 書上」)がある。この頃、尾札部運上屋も置かれたという。真澄が「えぞのてぶり」を書き記したのは寛政三年である。すでにこの海岸の冬の鱈釣りも始まっていて、大量な漁獲の積荷を弁財船が積んで江戸へも送り出した。かなりの漁家と釣り船が冬の厳しい漁業に従事していたことが推測される。
 文化四年(一八〇七)、尾札部領(椴法花を含む)四三軒一七七人、蝦夷家二六軒八二人、臼尻持三六軒一三一人、蝦夷家三六軒一三二人の記録(松前三ケ所付東西村調)がみられる。しかし、この頃すでに部落にはそれぞれ神社や墓地も設けられているのに、部落毎の戸口を知ることができない。部落、いわゆる字(枝村(えだむら)、支村とも記す)地域の戸口などが登場するのは、ようやく弘化二年(一八四五)、松浦武四郎によって蝦夷日誌に記されるのが、最も古い字の戸口を知る時となる。
 字村の戸口や産物に至るまで、より詳細な数字が一律に計上されてくるのは、嘉永七年(一八五四)書上(福島屋文書)によってである。安政年間以後は、一挙にたくさんの記録文書が思い思いの記述でできあがる。なかでも、よく知られるものに、東蝦夷地海岸図台帳、入北記、延叙歴検真図などは、戸口と集落の形成のすがたを伝える。

寛政以後の郷土の戸口表

 原書原文の掲載は、前項の記述に引用しているので、ここでは戸口の数字的な記述を挙げて、簡単な表にまとめ戸口の変遷をみる。