函館と下北半島は江戸時代から今日に至るまで、海峡をへだてて経済も文化も深い交流関係がつづいてきた。
とくに郷土は、佐井の人東出屋多五右衛門が臼尻に来住して漁業を営み、この地への和人の定住の先駆をなしたといわれている。多五右衛門を頼って渡海し、臼尻に来住するものもふえた。
のち、尾札部の飯田屋与五左衛門とともに、北海道建網大謀網発祥の開拓者といわれる小川幸吉も佐井出身の人で、寛政一二年、多五右衛門のもとに雇われ、のち独立して漁業家として大をなした人である。
青森県の下北半島は、旧南部藩の領内で南部の佐井村として知られ、北海道との往来も多い土地柄である。
とくに大謀網の漁場や大正、昭和初期の鰮の盛漁期、つづいて戦後のイカ漁全盛の時代には、下北の人たちは多く函館・渡島の村々に来住した。
戦前までのながい海運時代と戦後函館と大間、大間と戸井のフェリー就航以来、再び生活も文化も経済も、下北と函館はより密接な関係で結ばれるにいたった。
時に昭和四二年、函館下北協議会が発足し、下北郡下佐井村、大間町、風間浦村、大畑町と函館市、戸井町、恵山町(尻岸内町)、椴法華村との協議会が発足して、より友好を深めることになった。のち昭和四六年から南茅部町もこれに参画した。
昭和四九年、この函館下北協議会の呼びかけで、函館・下北子ども交流会がうまれ、子ども会による親善と友好は大きな成果を生んでいる。昭和五六年には婦人の交流も発足して、その親善は大きな広がりとなってきている。
この子ども交流会のはじめての佐井村会場の打ち合わせのとき、佐井村と南茅部町臼尻との歴史的な関係の深さが話題となり、このときの内容の復命をうけた南茅部町長が、町議会に真情を吐露して事前の同意をえ、友好交流の交渉に入った。
南茅部町は合併町村としてのなりたちもあり、尾札部を開いた飯田屋初代与五左衛門は能登国珠洲郡飯田村の人である。そこで現在の石川県珠洲市との交流が考えられたが、よい案がなかった。この頃、全国の定置協会で交流のある同じ石川県能都町(字出津)の魚良忠氏の来町などがあった。
尾札部は能登の能都町と、臼尻は南部の佐井村(青森県)の二つの祖先のふる里との友好促進の案を南茅部町議会に提案した。
下池議長、吉崎副議長はじめ町議会は全員好意的にこの促進に同意したので、佐井村との正式交渉に入った。
調印文の作成と調印式の打ち合わせには五〇年二月二〇日、佐藤町長、下池議長ほかフェリーで冬の海峡をわたって佐井村を訪問し、佐井村役場で両町村の打ち合わせをした。
昭和五〇年三月、議会を終了した二五日を定め、南茅部の全議員が海峡をわたっていき、祖先の地・下北の佐井村の議員を迎え、フェリーの船中で洋上調印式をあげるという予定であった。
しかし、当日は春の大時化のため、国鉄青函連絡船で佐藤町長、下池議長ほか南茅部町関係者が津軽海峡を渡って青森へ入港。同じ連絡船に佐井村の人達を迎えることになる。
佐井村側は長途、むつ、野辺地を経て青森駅へ急行した。
青函連絡船松前丸の好意的な配慮と協力をえて、青森港出港前の船内の食堂に姉妹町協定調印式場を設営して、両町村長、町村議会議長が協定書に署名した。
青森県佐井村役場
協定書をとり交わした佐井村松谷村長と南茅部町佐藤町長
北海道南茅部町[章]
[南茅部町概要表]
協 定 書
青森県佐井村と北海道南茅部町は、享保三年当時の父祖の代から漁業をとおして深い交流がなされてきた。
ここに、その友好関係を促進するため、姉妹町として提携する。今後、産業・教育・文化・その他各分野にわたって交流を深め、両町村の繁栄と幸福をもたらすため、一層の努力をすることを誓う。
右記の合意を確認するため、この協定書をつくり両町村長、町村議会議長が署名する。
昭和五十年三月二十五日
青森県佐井村長 松谷 清治
佐井村議会議長 東出 昇
北海道南茅部町長 佐藤 貞勝
南茅部町議会議長 下池 巌
青森県佐井村[章]
[佐井村概要表]