郷土南茅部のコンブが小説「暖簾」に描かれ、テレビドラマ横堀川で全国の注目をあつめた。昭和四一年八月八日、主演の長門裕之が尾札部・川汲の現地ロケに来町した。八月二九日、南茅部ロケの場面が放映された。郷土は、テレビの画面に魅せられた一夜であった。
山崎豊子「暖簾」から
翌日は早朝の汽車に乗って函館を発ち、軍(いくさ)川に向った。駒ヶ嶽八里を徒歩で越え、鹿部(しかべ)で一泊、また未明から臼尻(うすじり)、川汲(かつくみ)、尾札部(おさつべ)を浜づたいに十五里、馬の鞍でお尻(いど)を擦られながら買い附けに狂奔した。
来る日も、来る日も馬の背に揺られて、丹念に浜の仕込主を尋ねて浜を伝った。何処まで行き着いても雲一つなく、青い空は底から冴えわたっている。白い土用波が砂浜を噛んで、点々と散在する部落は貧しく荒れて、ひっそりとしていた。部落から部落への浜づたいの間は、さらに静まりかえり、潮風がゴオッと凄まじく吾平の耳朶を打つ。八月の土用照りの中で、吾平は思わず単衣ものの襟元をかき合せるほど肌寒かった。
「えらいひっそりしたとこやなあ、一つ景気附けに唄でも歌うてんか、祝儀出すぜェ」
馬の背を叩きながら、馬子に浜唄を所望したほど、吾平も心細かった。浜場に着くと、そこだけが新開地のように活気付いて、砂浜一面に昆布が干し並べられ、積み上げられていた。
浜によって昆布の質は異る。北海道渡島(おしま)郡内の川汲(かつくみ)、尾札部(おさつべ)、板木(いたぎ)、臼尻(うすじり)、木直(きなおし)産は、加工用原草の上もの産地で、二貫目ずつ一束に揃えて『先揃え昆布』と呼ばれる。これは昆布の根元から四寸前後の処を鎌で三日月形にまるく切断して元を整え、長さも幅もきちんと揃った上質な昆布だった。その中でも、二貫目で四十枚ある昆布は上品(じようもん)、七十枚は中品(なかもん)、百枚もあるものは並品(なみもん)で、それだけ昆布の厚みや大きさが貧弱になって来る。これを一枚、一枚数えてみずに、目分量で『何枚もの』と、ぴたりと数をふまねば、浜の者に素人かとなめられ、法外な高値をふっかけられる。こんな上品(じようもん)の『元揃え昆布』は、函館近海に多く、海からとれたばかりの素朴な味という意味で、海の産物ではあったが業者の間では別名『山出し昆布』と呼ばれて珍重された。これが同じ北海道でも、北へ寄るほど良質が少なくなった。日高(ひだか)産は質にむらがあり、上品(じようもん)は昆布巻き用、並品(なみもん)は芋や野菜とごった煮する青(あお)昆布として用いられた。釧路、根室産もちょっと質が落ちて、風土病の多い朝鮮、満州、支那で豚や鶏と炊き合せて沃度(ヨード)補給に使われた。うんと北に寄って、千島、樺太産になると、一番味が落ちて安ものの蒲鉾(かまぼこ)、うどんのだしに使われる。
吾平は、八月の初めから九月末まで滞在し、飽くことなく浜から浜へ買い漁った。昆布の品質は産地の別だけではなく、同じ地方でも、昆布を干す乾燥場の砂地の質によっても敏感に異った。これは吾平にとって大きな発見だった。
黒い光沢をもっていながら白く底光りするよく乾いた黒砂の上で干した昆布は、美しい光沢をもって柔らかくほどよく乾く。礫(こいし)の上は、砂に次いでよく乾いたが、雨や濃霧に会えば礫の上の水気が昆布の地肌を侵し、茶褐色のきれいな光沢を損い、赤い斑(まだら)をつけてしまう。土の乾燥場は、光熱を感じるのが一番遅い上、雨水が長い間溜ったままになり、乾燥も光沢も上(あが)りも悪く安ものの出し昆布ぐらいしか出来なかった。
吾平は、浜ごとに両手で砂を掬いあげては、さらさらと足元に落し、昆布の出来工合と照らし合せてみた。同じ砂の中でも細砂と粗砂では、些細に昆布を太陽の光にすかしてみると、地肌の詰み工合が異った。さらに乾燥する時は、どんな良質の砂の上ででも採集したその日の中に殆んど干し上がるようにしないと優良な品は得られなかった。長く乾燥していると昆布の大切な成分が表皮に浮き出て、妙な斑点が出来たり、味を悪くしてしまうから、天気の悪い日に採集しないようにしなければならなかった。しかも乾度にムラが出来ないように始終乾(ほ)し子(ご)(昆布を乾燥する労務者)たちは、一枚一枚掌で温度を加え乍ら、表裏を交互に乾かした。この乾燥の仕方が悪かったら非常に変質し易かった。
吾平は乾燥場を歩くだけではもの足らず、思い切って昆布の採集船にも乗り込んだ。アイヌ船のような軽快な磯船(いそぶね)で、沖へ出た。鈍(にぶ)色の土用波にもまれながら、沖乗(おきの)り夫(ふ)(昆布採集夫)たちは、太い棹の先に二叉(ふたまた)棒や鉤、捻(ねじ)などをつけた採集器具を海底に下している。四、五尋(ひろ)から、時によるとうんと沖へ出て十尋、二十尋の深底の岩礁にまで注意深く棹さした。船を小まわりに操りながら、長い二叉棒で何度も根気よく瀬踏みする。岩礁に根を下ろしている昆布の帯が、棹の先の二叉に巻きつき、ぐうっと手ごたえがあると手早くぐるぐる肘を廻し、昆布を掻き集めて、舷(ふなばた)にひき寄せる。昆布の重量で傾きそうな磯船の安定を巧みに取りながら、棹先を船のへりへ引き揚げ、乱脈にからまった昆布の帯の先端を見付けて、一本、一本力を入れて引き抜き船に採り入れる。この手ごたえのある時、敏捷に二叉棒を操って昆布を出来るだけ沢山巻きつけ、ぐいと引き揚げないと、潮流に流されてずるずるずるけてしまった。
そんな機敏な筋肉運動と、重量を支えてゆかねばならぬ沖乗り夫たちの腕は、上膊と下膊と手首が三つにくびれて、利き腕だけが長く節くれだち、何時も酒気を帯びていた。吾平の酒も、つい浜の沖乗り夫たちとの附き合いで強くなって来た。酔えば、胴間(どうま)声をあげて猥褻な唄をうたい、
「……へへ上等の真(ま)昆布探しに来なすったのか、飛びっきりの女探しみたいにね。それならそうで、もっと沖乗りの賃上げもして貰いてえなあ。なにしろ、ごらんのようにわしらお父っつぁんは沖で昆布の帯揚げ、おっ母と娘っ子は浜で昆布の陸揚げでさあ、なかなかこまめに砂落ししたり干してるじゃあござんせんか、文字通りの親子夫婦共稼でさあ」
酒くさい体をすり寄せてからんで来たが、吾平は、
「まあ、商売の話は祝儀の酒がすんでしもてからのことや。まあ、いうてみたら、女と寝てる時に銭の話する野暮もないやろ。まあ飲んでんか」
うまく話をはずして、吾平はビタ一文も賃上げしなかった。事実、沖乗り夫たちは、飲まされさえすれば、ことが済んだ。
薄柾、枝葺の屋根に、莚や七ツ葉などの灌木で囲いをし、土間の隅に砂を敷き、その上に枝を置いて寝食するような貧困な生活をしていても、家の裏側には焼酎の瓶がゴロゴロ転っていた。船に乗って出かける時も、酒くさい息を吐きながら、酒瓶をぶら下げていた。店先では豆をかじることさえ許されない奉公をして来た吾平の眼には、荒くれて眼惰(めだ)るかった。
浜の仕込主は一村二、三十軒を元締めして、買い附け、出荷は、すべてここを通さねばならない。沖乗り夫たちは、船、採集器具、乾燥場など殆んど仕込主から借りていたから、仕込主に一手販売を委ね、五分半から三割、平均一割の利潤をはねられた。仕込主を相手に吾平は値一杯にふみ込んで器用に叩き、積荷するまで油断なれへんと、日和下駄で一日中、船着場の鼻先に突ったち、仲仕に荷抜きされぬように見張りした。天気の悪い日や、高波に濡れる心配のある時は、
「銭のかかった大事な品物や、昆布に湿気は禁物や」
こうつっぱって、頑強に積荷させなかった。荒くれた浜の仕込主も、浪花屋吾平はおそろしい大阪商人だと一目おいた。
浜の仕入れは、産地や採集期を誤魔化される心配なく、いろんな荷受機関の手をくぐらず直接に良い品物が廉く入手出来た。大阪商人がまだ殆んど産地買い附けをしなかった頃だけに、旅費の大阪、函館間二十七円、宿泊料一泊三食附き一円五十銭、馬代一日四円が難なく浮いた上、相当な儲けが出た。(略)
(新潮文庫)
山崎豊子 川汲漁協取材 森野政利所蔵
山崎豊子の色紙 尾札部漁業協同組合所蔵