鱈漁の漁具は延繩・浮繩・ごろた繩および刺網を用いた。
昔は、ごろた繩(手釣)や刺網を主としたが、明治になって延繩が普及した。同二〇年代には全道的に延繩が主要な漁具となった。
明治二八年刊「北海道水産調査報告」巻一によれば、茅部亀田二郡の恵山付近では、一回に投入する延繩一二枚から二二枚で、その延長一、八〇〇尋(間)乃至三、三〇〇尋(間)を一日一回投入したと記している。漁船は持符船で三人乗組の仲間(なかば)稼業であった。
秋おそくなると、北海道(そして東北・北陸)の近海の深い海底の礁(ね)に、鱈の大群が回遊してくる。
鱈は九月ごろには陸地に近寄り、一二月ごろから翌年の三月ごろまでの間に産卵する。一尾が産卵する数は、三百万粒とも五百万粒ともいわれる。
一二、三日で孵化して、三年で親(成魚)になる。成長した鱈は、食欲が旺盛で、体重は一年に五割ぐらいずつふえて、四、五歳ごろから産卵を始め、一三、四歳までに一〇回ぐらいも産卵を続けるという。
○尾札部村雑信 明治三一年一二月(二三日発) 道立図書館所蔵「地方の景況」 渡島・桧山(2)
雪魚 は市上に於て価(あたい)の最も廉なる魚類の一なるが、其之れを獲(と)るの危険に至て甚だし者あるなり。即ち彼等は海岸を距(さ)る五六里の沖合に出漁し(片往八時間を要す)。若し一朝風浪に逢へば釣繩を棄て、難を風下に避く。
然れとも一葉の扁舟(三人乗(のり))一たび操櫂を過てば転覆終に魚腹の物となるを免れず、去歳双舟六人を失し今年亦た二舟六人を喪ふ。年々歳々必ず此遭厄者を出(いだ)さゞるなし。故に当地方に在(あっ)ては多少の財産を有するも、鱈釣親方と云へば先ず中以下に位し、俗に三等漁紳と称して人之れを軽視するものヽ如し。
(1)鱈釣り漁場
鱈釣り口説の舞台となった古部(尾札部)は、椴法華村との村境にある。
椴法華とその隣村古部・木直は、鱈漁場である恵山魚田に近く、格好の船入澗は鱈釣りの根拠地として賑わった。
江戸末期から明治・大正の鱈漁最盛期の頃、古部の澗には越前・越中の北越、北陸から多勢入稼した。
明治三〇年ごろ、越前船一八艘(ばい)、持符四艘が澗掛りしたという。
内地船のほかに、沖が時化ると、川汲船や熊泊船も、皆急いで古部の澗に避難した。
「茅部郡」稿 河野 常吉
鱈 古部沖を好漁場トス春鱈ハ四里内外ノ沖ニテ釣リ秋鱈ハ二、三里ノ沖ニテ釣ル。
川汲、尾札部ヨリハ皆古部方面ニ出漁スルモノトス。
漁船ハ村民ハ持符三人乗、入稼者ハ川崎船六人乗ヲ用フ。
三十九年ニ於ケル入稼者ハ漁船二十六艘 漁業者三十人 漁夫百九十四人ナルモ外ニ妻子ヲ伴ヒル者少ナカラザルヲ以テ総数三百名ニ達スベシ。
村民三人共同ニテ船ヲ借リ(一艘ニ付賃借料ハ秋鱈漁期中十二円乃至十五円、春鱈漁期中五円位ヲ普通トス) 釣獲ニ従事スルモノニシテ秋鱈ハ普通一艘ニ付百五十束、春鱈ハ四五十束ヲ釣獲
入稼川崎船ハ一艘約二百五十束~三百束秋鱈は主ニ新鱈トナシ又生ニテ函館ニ送ル春鱈ハ概ネ開鱈トナス。
古部ニテハ直接函館ノ問屋ニ委託販売ヲナスモ 其他ハ函館ヨリ来レル仲買人ニ売渡ス。