(一)飯田屋の樺太進出
明治二〇年代、樺太の南部の漁場はほとんど解放され、日本人の漁場経営は二六〇箇所に及び、樺太鰊の産額が増大した。
同三〇年代に入ると、露国は日本人の漁業権を半分に制限したので、日本の政府もロシアからの魚の輸入を制限した。
この頃、飯田屋は樺太に鰊漁場を経営した。
明治三六年の日本人による樺太での漁獲高は
鰊粕 九〇、〇一四石
鮭 二、五五九石
鱒 一六、八六二石
昆布 二三八石
計一〇九、六七三石に達し、主に函館人であった。その資本も函館資本が多かったから、樺太漁業は函館の経済に大きな位置をしめていた。三七、八年の日露戦争によって樺太出漁が休止されて、函館の漁業関係者に大きな影響を及ぼした。
戦争が終結して三八年八月、樺太仮規則によって樺太漁業が再開される気運となる。九月、飯田清次郎(明治三八生)は函館から小樽に向かい、待機して樺太への第一便、日本郵船田子浦丸に同志とともに乗船し、日露戦争が終わってまもない、硝煙消えやらぬ樺太の地に渡った。
目的は漁場経営であることは明らかであった。戦前も経営していた自己の権益を、戦後いち早く進出するための勇気ある行動である。
事業の内容は詳かではないが、日露の講和条約の締結をまって、小樽から樺太に渡海したときの逐一家庭に知らせた二一枚の絵葉書が飯田家に所蔵されている。
(二)〓内藤の礼文香深漁場
〓内藤家は明治四〇年代、樺太のトド島で鰊漁場を経営した。同四三年には大漁して水揚三万円の吉報が村に入ったという。のちトド島から礼文島香深に経営を移した。
青森の駒谷勝太郎所有の漁業権「鰊第二八九号鰊漁業」を、一か年二、〇〇〇円と駒谷名儀の水産税並びに附加税、水産組合の経費などを代行することで鰊漁場の一切を借り受けたものである。
保証人は函館の海産商徳田安吉(函館区豊川町三六)であった。
鰊漁場経営の規模を知らせる駒谷・内藤二者が取り交した一札がある。
建物は、木造平家建居小家四〇坪・一棟、板倉三二坪・一棟、板倉三坪・一棟、廊家三二坪・一棟。
漁具は、鰊角網・附属品一式付一統、鰊枠網一枚、保津船取合三艘であった。
(資料一)
駒谷勝太郎所有
東第二八九号漁場附属漁具調書
一、角 網 約四〇間 四四枚 一統
但桐丸阿羽ロップ□付
本人曰クム□分使用スルトスレバ今一年
ハ使用出来ル見込ミ
一、枠 網 三四枚 六間四尺切 一枚
本人曰クブチギワ三尺佐替ヘ明年使用ノ積リ
ナリト云フ
一、同 三六枚 七間切 一枚
本人曰ク是レハ明年充分使用出来ル見込
一、小 袋 四□
一、枠 船 口一丈 □船 一艘
一、同 口九尺八寸 〃船 一艘
一、起 船 口九尺五寸 〃船 一艘
船ハ□□□完全ナリ
一、汲 船 口八尺六七寸 一艘
一、袋伝馬船 一艘
一、磯 船 一艘
一、大タモ 網付 五丁
本人曰ク網ハ修繕ヲ要スルナラン
一、先 櫂 三五枚
一、トモ櫂 三枚
内 一枚ハ或ハ使用出来難カラン
一、網口桁 一本
一、汲 桁 二本
一、繰越用六分ロープ 二本
本年入レタルモノ
一、鰊 釜 一〇枚
一、〆 筒 一〇□
一、筒 流 一〇□
一、網 蓋 約七〇〇枚
一、巻ボーズ 四五本
一、ゴロ 五本
一、坐角、萬ロクロ、〆木 釜□□
〆網等 釜前道具 附属
一、納屋桁 五本
一、早 切 本年入レタルモノ 一〇〇本
一、大 鍋 三枚
一、金 錨 一〇丁
但一五〆 一丁 他ハ一〇〆以下七〆迄
一、敷 木 約二〇枚
一、油槽八合 二□
一、畚 三〇□
一、荷と(ニ斗)桶 七組
一、ポンタモ 二〇丁
一、釜シデ 一〇丁
一、ギッチョ 一組
一、小伝馬櫓 三枚
一、常マッケ 七八丁
一、一寸ロープ 巻網 (完全) 二本
一、歩ミ板 二五枚位
但二間モノモ有リ
一、古 莚 約二〇〇束
本年入レタル物
一、古手網 凡ソ 二枚
一、古ロープ網 (数□セズ) 六七本
一、古ワム網 古藁網 多少有ルモ数□セズ
一、其他小道具 附属ノ□
建物
一、番屋 四間八間ニ下屋付 一棟
一、廊下 四間八間 一棟
一、粕倉 四間八間 一棟
一、網倉 五尺二間 一棟
〆
尚受渡ノ際トモ相成候ヘバ多少
増加スルモノモ有之ベク且ツ場合ニ
依リニテハ品物ニテ追求モ出来
可申カト存候
〓内藤漁場
漁夫被雇契約證(九通 期間 三月一日より七月一〇日まで)
契約年月日 被雇本人 保證人 給 金
尾札部
大正一一・一二・三一 前田留三郎 今津菊三郎 金五〇円
木直
一二・ 一・一六 藤田岩次郎 松村 文蔵 金六〇円
木直
一二・ 一・一六 青山萬九郎 松村 文蔵 金六〇円
尾札部
一二・一二・ 七 熊谷菊太郎 熊谷 福松 金七〇円
見日
一二・一二・二二 坂下菊太郎 白石 馬吉 金五〇円
尾札部
一三・ 一・二〇 熊谷豊太郎 熊谷 福松 一〇〇円九〇円
尾札部
一三・ 二・ 三 柴田 徳治 柴田 佐市 金八〇円
一三・ 二・一四 佐々木利三郎 ― ―
一三・ 二・二二 村上 幸三 村上 力松 金八〇円
(資料)
漁夫被雇契約證 (書式)
一金 但漁業準備ヨリ漁場終了マテ給金トス
内金 但各給料金ノ内ヨリ契約金トシテ正ニ請取候也
但
一 被雇期限大正 年 月 日ヨリ貴殿営業漁場ニ於テ同年 月 日迄トス
一 期限中ハ漁業ノミニ不限総テ御指揮ニ従ヒ海陸何業タリトモ誠實ニ労働可致ハ勿論投網中ハ風波昼夜ノ区別ナク相働キ可申候事
一 前記給料金相定メタリト雖モ實際現所ノ勤怠ニ依リ増減セラルヽモ異議申間敷候事
一 前借金及物品代ハ満期終了ノ際給料及手當金ノ内ヨリ引去リ請取申候事
一 期限中ハ實際営業ノ為メ病気又ハ負傷ヲ為シ労役為シ能ハザル時ハ中途ト雖モ約定給料申請候事
一 契約期間中ニ病気其他ノ事故ニ依リ休業シタル時ハ漁場ノ規定ニ従ヒ給料若クハ手當金ノ内ヨリ御引去リ相成候トモ異議申間敷候事
一 期間中ハ不都合ナル行為ニテ貴殿ヘ損害相掛申候節ハ其行為ニ依リ給料金ヲ御渡シナク放逐セラルヽモ異議申間敷候事
一 給料及手當ハ満期解雇ノ時ニアラザレハ一切請求不候事
一 期限中被雇人ニ於テ中途理由ナク解雇ヲ願出テントスル時ハ相當ノ代人ヲ以テ補ヒ可申且ツ為メニ生スル損害金及前借金ニ相當ノ利子ヲ附シ労働賃金ハ一切請求セザル事
一 被雇人ニ於テ病気逃亡其他何等ノ事故ヲ不問前約ヲ履行セサル時ハ連帯人ニ於テ引受ケ候ハ勿論損害ハ速ニ代償可致候事
一 御出発ノ節ハ何時ニテモ御指定ノ處迄出張随従可致候事
一 本契約ニ関シ訴訟ヲ提起セラルヽ場合ハ□□区裁判所ヲ以テ合意ノ管轄ト定メラルヽモ異議ナキ事
右契約ヲ以テ今般被雇候ニ付テハ官庁御規則ハ勿論御家法ノ御規則ニ依リ何事ニ係ラズ御指図ヲ遵守可仕候仍而為後日連署ヲ以テ契約証差入候處如件
大正 年 月 日
郡 村字 番地
被雇本人 印
郡 村字 番地
保證人 ㊞
大正一三年三月八日付で、内藤二太郎は次の二七名(うち女二名)の漁夫出発届を地元尾札部巡査駐在所と村役場に提出している。
尾札部 七 吉田吉五郎 明治一五年生
六二 能戸市太郎 〃 三〃
〃 能戸 市蔵 〃 三〇〃
〃 大井 掟三 〃 四〇〃
二二四 瀬川 元蔵 〃 二〇〃
七四 吉川 倉蔵 〃 六〃
〃 吉川 倉吉 〃 二六〃
八二 秋本 実 〃 三九〃
二二三 柳川 仙松 〃 二〇〃
七五 飯田 石勝 〃 三八〃
〃 飯田 石蔵 〃 三四〃
九 古舘定太郎 〃 三三〃
木 直 佐々木利三郎 〃 一九〃
尾札部 伊藤 福松 〃 一五〃
伊藤 カネ 〃 ニ〇〃
伊藤 クニ 〃 四〇〃
上川原馬吉 〃 四一〃
坂井徳治郎 〃 三七〃
白石 馬吉 〃 一五〃
白石 梅吉 〃 三八〃
一〇七 熊谷豊太郎 〃 三四〃
坂下菊太郎 〃 三二〃
一〇七 熊谷菊太郎 〃 三八〃
村上 幸三 〃 三七〃
六〇 小山田勝蔵 〃 三三〃
熊谷末太郎 〃 三四〃
前田冨三郎 〃 二九〃
同年同月一三日、香深警察分署と村役場に「漁夫寄留届」を提出している。この寄留届には出発届の二七名のほかに一四歳の小綿市太郎の名が加えられている。
(資料)
労役者出発点検之証
茅部郡尾札部村字尾札部五十七番地
募集者 内 藤 二 太 郎
[出発点検之證]
備考 二十五名ノ内女子二人未成年者ハ何レモ親権者ノ承諾アルモノナリ
右の通リ出発点検ニ応シタルコトヲ証明ス 大正十三年三月八日
森警察署尾札部巡査駐在所詰
巡査 伊 藤 廣 衛 伊藤印
資料 内藤米雄 所蔵
出発点検之證
臼尻の〓野村玉蔵(明治五生)は、明治四〇年代から大正の末まで、礼文島船泊の重兵衛ヶ浜で鰊の差網漁場を経営した。漁不漁をくりかえしたが、堅実な経営によって当時としては相当の収益を得たといわれる。(野村孝次=明治三五生=談)
熊泊(大船)の〓中村家は、祖父の代に利尻・礼文で鰊の建網を経営した。のちには樺太の敷香の先までいって雑魚漁場の経営をした。一年の不漁で負債数十万円をだした。持ち山五〇町歩の杉を手放して全負債を整理した。以後、建網の経営を廃して前沖の漁業と堅実に取組んできた。(中村喜一郎=明治三〇生=談)
大正に入ると桧山・渡島海域とオホーツク海域での鰊の漁獲高は急速に減少していった。
渡島沿岸では、大正一四年以降、鰊の漁獲は皆無となった。桧山沿岸でも昭和九年以降、鰊の漁獲はみられなくなってしまった。
後志支庁管内でも昭和五年には僅か九〇石に激減し、未曽有の凶漁に見舞われた道南の漁村は深刻な恐慌にさらされていった。
オホーツクから根室海域も昭和一二年以降は皆無となり、網走・釧路も同じく鰊の凶漁を示して鰊漁は僅か日本海北部の留萌・宗谷方面に限られてしまい、鰊漁場の北上化はますます顕著な漁況を示した。