〔商業のはじめ〕

200 ~ 202 / 1034ページ
 郷土の産業の始めは、昆布採り商売(稼業・職業を商売と総称した)であった。
 青江秀「巡回紀行」に拠れば、川汲〓酒井家の始祖重兵衛は、元和年中(一六一五)、亀田の石崎から来て酒を売ったという。
 当時、土人は鰊・昆布を食料にするために獲ったが、売ることを知らなかったとも記している。
 重兵衛は家を挙げて川汲に来住し、差網などの使用を教え、また、昆布の結束の方法も教えて売ることをすすめた。これを函館に運送して米・味噌・塩・酒などと交易した。巡回紀行にその家系を報告した明治一〇年代の当主清吉は、酒井家の九代目とされている。
 天明から寛政年間には鱈釣り漁も盛んになり、来住者も増加したことは、箱館の商人と地元の商人との結びつきが深くなっていることを示している。(漁業の項参照)
 安政四年(一八五七)、六か場所巡見に来村した堀奉行一行は、酒井家に休憩している。酒井屋と呼び、代々商家を継いできた。年号不詳だが、ぶ厚い大福帳が現存している。

〓酒井屋の大福帳

 弘化二年(一八四五)、松浦武四郎が、「蝦夷日誌 巻五」に記述した郷土の事情から、商業に係わる事柄を抜粋する。
 
  シカベ村   人家十軒斗  夷人小屋  七、八軒斗
  磯屋     人家二軒  夷人  壱軒有
         夏分は昆布取にてにぎ合へり。故に出小屋のみならず、また小商人も多く此処に出張る
         なり。
  クマトマリ  人家十七、八軒
         小商人  壱軒
         昆布小屋多し
         此辺りに箱館西在並箱館町内、大野在中より出稼の人は中々すさまじき事にて、其多き年
         には浜に小屋を建て是に住居し居るに、其取りし昆布の干場もなく……
  臼尻村    人家五十余軒
         小商人二、三軒  旅籠屋も二軒あり(略)
         金銭廻り甚よろし。又此処に新鱈と申隠妓有也
  カクシュマ・ヒヤミヅ  (略)此辺惣て昆布小屋立並なり
         丁未(弘化四年)の夏、昆布最中には小商人・煮商店・妓・三味線引・祭文よみ等群集して、
         江差の浜小屋のごとく群集し、「松前にて昆布にて屋根を葺と云は初め此辺にて解したり。
         (同文がクマトマリの項にも記してある)
  河汲村    人家二十余軒(略)
         小商人一軒
  尾札部村   人家八十軒斗
         小商人二、三軒
  椴法華村   人家弐十余軒
         小商人壱軒
 
 明治以前は、来住の人家は少なかったので、松浦武四郎のいう小商人として、商家は漁業も兼業していたようである。
 臼尻・カク子シュマ(垣の島)、ヒヤミヅ(冷水・安浦との境辺)には、昆布採りの時期は入稼ぎが多かった。煮商店(にあきないみせ)のほか妓(おんな)・三味線引・祭文よみ(または祭文語り)などが「群集して」江差の浜小屋のごとく「群集し」とある。群集の字句を重複して、昆布取りの活況を伝えているのが面白い。
 往昔、蝦夷地の商(あきな)いは、多く行商人によっておこなわれた。
 タベト(旅商人)と呼ぶ、薬売りや小間物商は、明治・大正年間から昭和四〇年頃まで来往した。