臼尻尋常小学校
明治四二年の春、臼尻尋常小学校のはじめての尋常科六年生が大沼へ二泊三日の修学旅行をしたという。これまで尋常科は四年で修業・卒業していた。尋常科六年の受持訓導田鎖郁太郎は、六年生の修学旅行を計画した。経費は生徒各自が家庭から米一升ずつ持ち寄り、当時一升一七銭の米を、〓京谷店で特別に二〇銭で両替してもらった。ほかに布海苔摘みをして得た収入からひとり三〇銭、計五〇銭を学校に納めた。
五月二八日朝八時、一行二八名は田鎖先生に引率されて臼尻小学校前から出発。男子は絣の着物か縞の着物を着て帽子をかぶり、女子は筒袖の着物に海老茶の袴をはいた服装だったという。徒歩の修学旅行であるから家の人に手作りしてもらった黒い足袋に草鞋を履いて、ほかに予備の草鞋を三足背負った。小遣いは三〇銭まで許された。浜中を過ぎて茂佐尻岬(のちの豊崎トンネルのある岬)は山越えした。大舟川を渡り、熊泊(大船)、磯谷をゆき蹴勝浜から山越えして黒羽尻川を渡ってまた少しの山道を歩いてボーロ(のちの上岩戸)におりて小休止をとった。ここには臼尻の〓二本柳家の漁場が古くからあった。一行の中に〓二本柳家の女の子がいたので、漁場(納屋(なや)といった)の人たちも一行を笑顔で迎えてくれた。ここを発って鹿部で昼食。ここから軍川街道をゆき、途中の発電所を見学。はじめて電灯を見た生徒たちに、電気は強烈な印象を与えた八里半(三四キロメートル)の行程を歩いて大沼に着いた。男子は大沼小学校に泊り、女子は校長住宅に泊めてもらった。
翌二九日の朝食に、大沼の鮒のダシの豆腐汁がとても美味(うま)かったそうである。おそらく大沼小学校の校長先生の奥さんや近所の主婦の手造りの料理という好意にささえられたものだったろう。
この日は大沼と駒ヶ岳の景勝を眺めながら、湖畔に沿って大山巌元帥の銅像を見学、小沼にあった函館の富豪五の洋館の別荘などを見学して大沼の駅から赤井川駅まで一区間、汽車に乗った。はじめて乗る汽車は、あっという間に次の駅について下車し、赤井川駅から大沼駅へ歩いて帰ったが、ずいぶん遠い道程に感じたという。
この日は鹿部まで帰るので、午後の二時ごろには大沼を発ったと思われる。帰途、サクタロウの休み処で小休止、ここで噴水をみたという。連日の強行軍で疲れのみえた生徒もいたらしく、何人かは鹿部〓工藤の乗合馬車に乗った。夕方、鹿部村に着き小学校に宿泊。三日目は、わが家へ帰るうれしさで元気に臼尻に帰った。生徒の中には予備の草鞋を足りなくして熊泊で二銭の草鞋を買って履いたものもいたという。
(臼尻小学校の沿革誌に詳しい記録がなかったので、当時六年生であった荒木ユン(明治三一生)旧姓中村の懐古談よりまとめた。)
大正の修学旅行 その一
熊泊尋常小学校
熊泊(大船)小学校の沿革誌に、大正三年九月一九日、熊泊尋常小学校尋常科五、六年生のうち強壮なるもの三二名、二泊三日で大沼公園へ修学旅行をした記録がある。
佐藤充雄校長、下郡山亮晋訓導が引率して一九日午前六時三五分出発。握飯、昼夕二食分、白米三合五勺、外套または角巻、草鞋、草履を二足、救急薬(宝丹の類)を背負っている。長い道程を歩く小学生にはなかなかの重量である。小遣いは任意現金五銭以上一〇銭とされている。
熊泊(大船)から鹿部まで二里半里(一〇キロメートル)、鹿部から大沼まで四里(一六キロメートル)を歩いて午後五時軍川(現大沼駅)着。汽車で大沼(大沼公園駅)に下車。大沼小学校に宿泊。教室の床に莚三枚ずつ敷いて一泊とあるが、臼尻校のときと同様、学校に泊ったのは男子で、女子は校長住宅に泊めてもらっている。
翌二〇日朝、女子を督励して朝食を調理し、残飯を握飯としているのは昼食の準備も予定の行動であったようだ。
一一時大沼公園を見学して帰途につく。しかし、児童の歩行捗らずと記されている。午後六時ようやく鹿部村に着く。男子は小田旅館、女子は〓旅館にそれぞれ分宿した。一泊二食だったのだろう費用二五銭、雑費七銭だった。翌九月二一日、鹿部村を出発して帰途につき、落伍者なく全員無事帰校した。
大正の修学旅行 その二
磨光尋常小学校
磨光尋常小学校のはじめての修学旅行は、大正七年、鹿部・大沼を経由函館に出て、帰途、川汲旧山道を越える二泊三日の行程であったという。以下、野村常次郎(明治三六生)の懐古談によると、尋常科六年生二六名が、鈴木初蔵校長と金谷威訓導の引率で学校を出発。全員羽織・袴に帽子をかぶって参加した。鹿部まで海岸通りを歩いて行き、鹿部小学校に一泊。翌日は大沼まで歩いていって汽車に乗った。函館の停車場(駅)に着いて宝町のカノウ屋に一泊。三日目は、函館公園を見学して、ここで記念写真を撮った。それから函館毎日新聞社を訪ね、佐藤在寛(ざいかん)の話をきいた。つぎに矢野サーカスを見学した。これは移動動物園で、白いカラスや大蛇を初めて見てびっくりしたという。帰途は湯の川に出て、旧川汲山道を越えて尾札部村に帰った。
川汲山道が自動車道路に改良開削されたのは大正一四年秋であり、海岸の道路が鹿部まで全線自動車が開通したのは昭和四年であるから、大正七年の磨光校の修学旅行は大沼から函館までの汽車をのぞくと、全行程を歩いて旅することが旅行であった時代であったのである。
磨光小学校の修学旅行函館公園にて 大正7年 野村常次郎所蔵
昭和の修学旅行
昭和九年六月、磨光尋常高等小学校高等科二年の修学旅行は、海路船旅をして室蘭への修学旅行を実施した。
このときの旅行記が翌一〇年三月発行の郷土文集「漁火(いさりび)」(指導小林吉郎兵衛)に載っている。
一、出発より室蘭港まで
小阪孝一
六月二十四日、我等が待望せる修學旅行が愈々目の前に來たのだ。此の日幸に天気晴朗にして波はおだやかである。
朝六時、一同は意気揚々として二の濱邊に集る。そこで整列して人員調査後、校長先生の激励の言葉に勇気を増して、中澤先生・大友先生に率ゐられて愈々船に乗り込む。船の前甲板の一部を僕等が占領し、諸先生の『元気で行って來い』の聲に送られて、午前七時尾札部を出發する。
船は走る。煙を吐いて……もう僕等の村は遙かに離れた。遠く微(かす)かになり行く我等が尾札部よ! さらば! 已(すで)にして僕等の視界からなつかしの我が村は去る。
船はどんどん走ってゐる。僕等は楽しき船旅よ、と思ふ中に船はぴたりと止って、右へ左へと大ゆれを始めた。大海の真只中であらう。紺青の潮が限りなく續いて近くを走る船影もない。聞けば機械の故障だといふ。なかなかかからない。女生徒はそろそろ悲鳴を上げる。顔色を悪くしてゐる者もある。どうなることかと思ってゐる中にやっと動き出して一同安心した。右を見れば恵山が遠く立って左に煙り吐く駒ヶ岳に對してゐる。
海水はいよいよ青い。時々いるかが飛び出すかと思へば、又行く手に何千とも知れぬ水鳥が群をなしてゐる。そこへ船を突き進めると蜘蛛(くも)の子を散らすやうに逃げて行く。全く痛快である。
やがて目的地室蘭が見え始めた。船はあせり立つ僕等の心を察してか益々速力を加へて走るうちに又止ってしまった。今度もなかなか動かない。皆の心はせき立って機関室をのぞいて早く動かしてくれと言ふ有様である。室蘭港を目前にしながら何といふことであらう。やうやうのことで船は走った。一同無事港に着いたのは午後二時であった。
二、室蘭市に於ける見學
土肥誠一郎
午後二時、僕等は憧(あこが)れの室蘭に着いた。港湾設備のよい事は本道有数である。上陸第一に驚いたのはトランスポーターであった。大きな船が横づけになって石炭を積込む光景が想像される。さすがに室蘭港頭を飾る第一の印象深きものである。
先づ市街が山に近く風光の壮大なのも特色であらう。煙波果(はて)しなき内浦湾頭に海風に吹かれながらもそそり立つ地球岬の奇岩、港湾入口の大黒島、室蘭は有名な商工都市であるが、又美しい風景都市とも言へるであらう。
列を整へて海岸通りの一旅館に落着いた。便利なのは向ひが駅であるといふことである。絶えず出入する汽車が目に着く。隣りが室蘭毎日新聞社で輪轉機の音が響いて來る。
荷物を部屋に置いて先づ新聞社見學といふことになった。時間が無いので大急ぎで見に行く。中へ入って驚いたのは新聞紙になる大きな紙の丸棒である。話を聞くと苫小牧の王子製紙工場で製造したものだとの事である。大輪轉機はすさまじい音を立てて廻轉してゐる。一回に十枚づつの印刷された新聞紙が下の台に落ちて來る。「チーン」とリンが鳴る。すると傍についてゐる人が手早く之れをたたんで別の所へ置くと次の人が之れを運んで行く。此の輪轉機へあの大紙棒を入れて運轉すると縦に切れて印刷され一本で八千枚位の新聞紙が出來るといふから驚く。價は一本五六十圓ださうである。
次は鉛を熔(とか)してゐる所であった。此の熔された鉛が鉛版に流し込まれるのださうでこの鉛版があの輪轉機に附いて印刷の最大の役目をすると聞いて感心した。
今日は時間が無いので二階の方は見せてもらへなかったのは残念だった。帰りに營業部のそばへ行くと二人の係員が地方へ送る新聞紙に發送用の帯紙を附けてゐたがその手早なことは全く機械のやうである。慣れてゐるとは云ひながら一同只驚くの外はなかった。参考にとボロ紙の紙型(しけい)を二、三枚もらって社の人へ厚く禮をして外へ出た。
先生に導かれて八幡宮参拝といふ事になる。くねくね曲った石段を上ると東郷元帥の筆になる文字の刻まれてある碑を見た。一番上の小高い丘に八幡宮が鎮座まします。一同列を整へ形を正して拝んだ。厳かな空気が四方に満ちて一人でに頭が下る。社殿の近くに一老紳士の銅像があった。これが室蘭開拓の恩人高島嘉右衛門翁であると参拝に來てゐた室蘭中學の一生徒より聞いた。
参拝終って今度は真ぐ近くの室蘭測候所へ見學に行く。右手の丘の上にある建物がそれである。案内を乞ふと所員が出て來て早速説明してくれる。先づ外の方から始る。屋根の上にある矢型の金物は風向計で矢の方向に現在風が吹いて居るのである。これは僕等の學校にもあるのでよく知ってゐる。四つの柄の先に圓い中のうつろな器物の附いてゐるのが風速計ださうである。此れが一秒間に何回廻轉するかによって風の速さを知るのでつまり函館大火の時のやうな大風には非常に多く廻るといふことになる。
晴雨計や寒暖計も見せてもらった。地下の温度も計ってゐた。此所では毎日二回観測した気象を東京中央気象台へ報告し中央気象台では全國の測候所より集る情報を聞いて天気圖を作製するのださうだ。斯くて日本及近海の天気圖が出来、之れを毎日午前六時・正午・午後六時の三回に亙って印刷するのださうだ。僕等にもその天気圖を見せてくれたが色々な符號が記されてあった。
雨の降水量を計る機械、其他色々の為めになるものを見せてくれたが中でも驚いたのは地震計であった。小さな室の真中にコンクリートで固った圓い磐が在って此の上にガラス張りの箱に入ってゐるのである。地震が有ると紙に波形の線が書かれるのでわかるのださうだ。其の紙を見せてもらったが真黒い紙で五十倍にして書かれるのださうである。
種々為めになる話を聞いて午後六時頃測候所を出た。空は曇ってゐた。明日は雨だと測候所の人から聞いて一同うんざりする。こればかりは的ってくれなければよいと思った。
旅館に着くと夕飯であった。一室に集合して飯を食べるのだ。僕は旅館で斯く面白く揃って飯を食ふのは生れて初めである。一生の思い出になるだらう。元気でうんと食べた。
夕飯が済むと午後十時まで自由外出である。知人の家へ行く者、活動寫真見物に行く者、宿に残って寝ころんでゐる者等すべて自由である。午後十時迄には全部帰って來た。空は相変らず曇ってゐる。明日の天気を心配しながらも一同楽しい夢を見るべく眠りに就(つ)いた。斯くして修學旅行の第一日は終ったのである。
明くれば二十五日午前三時皆んな目をさました。全く早い。先生も驚かれたことであらう。もう顔を洗ってゐる者が多い。朝食まで外出する。港の朝は賑かである。職工の群れが通る。話聲が賑はしくも朝の街に響く。水撒(みずまき)馬車が水を撒(ま)いて行く。まだ大通りの店は戸を開かぬ。
朝食となって一同食膳へ向った時、かつて十年間も僕等の村の巡査をやって居られた伊藤さんがひょっこり入って來られて面白い話を聞かせながら僕等と朝食を共にされた。なつかしくも嬉しかった。
昼の握り飯を戴いて一同は名残惜しまるる室蘭市を後にして列車の人となった。汽車の進むにつれて附近の廣場に置かれた鐵材の山が目につく。石炭の山・鐵材の山が僕等を驚かす、之れが輪西製鐵所のだとわかって愈々驚く。製鐵所近くなると大煙突が目につく。赤黒い煤煙(ばいえん)を空になびかせる光景は工業都市室蘭の一大偉観である。
輪西駅で下車して製鐵所事務所へ行く。所員に案内してもらって構内(こうない)に入る。石炭の小山の間を数本のレールが通ってゐる。石炭を運ぶ貨車のレールであらう。熔礦爐(ようくゎうろ)へ行って見るともう熱くてがまん出來ない程である。真赤に熔けた鐵が水のやうに流れて下の貨車の釜の中へたまる。一ぱいになると之れを別の鐵製品を造る工場へ運ぶ。火花が四方へ散る。夜だったらさぞ見事だらうと思った。砂で鋳型(ゐがた)を作るのにも驚いた。絶えず水がパイプで廻って居る。其の水がやがて一つの所へ集る。即ち注水池へ集るのである。水と言っても何千度の熱のある所を通って來るので熱い湯である。池の面から湯気が立ち上ってゐる。工場のヱンヂンの音で話聲も聞えない。此の工場の廣さはかなりな面積であらう。又熔礦爐の火が一度消えるに幾年かの歳月を要するとのことには一同驚くの外はない。而して此の工場の従業員二千五百名、全く大したものである。
製出品は鋳物用銑鐵・製鋼用鐵・各種コークス・コールタール・硫酸安母尼亜・クレオソート・コールターピッチ等である。此所は製鋼所と共に室蘭工業界の二大原動力であると共に日本有数の重要工場である。見る物聞く物總て驚きの種である。
再び見ることの出來ないと思はるる此の工場に別れを告げて一同は駅へ急いだ。幸ひにも天気は雨でなさそうだ。幾多の新知識を得た僕等は喜びの中にも再び車上の人となって洞爺湖へ向った。
三、室蘭より洞爺湖まで
西谷久
室蘭を後にした僕等は、車窓よりの眺めのうつり変りに物めづらしくあちこちを見てゐるうちに汽車はもう虻田駅に着いた。僕等は元気一ぱいで下車した。
僕等一行は虻田小學校に行って休ませてもらった。お菓子やせんべいを御馳走になったり蓄音機を聞かせてもらったりしてゆっくり休んだ。自動車が來て僕等の荷物を全部宿屋まで運んでくれた。
虻田小學校の先生や生徒に別れて六粁程の道を洞爺湖へ歩いた。途中山道の木蔭で休んでは又歩む。歩んでは休み/\してゐる中に目的の洞爺湖は近づいて來た。もう労(つか)れ/\て元気も衰(おとろ)へた頃
『やっ洞爺湖だツ!』
と誰かが叫んだ。ハッと思って行手(いくて)を見れば見える/\湖が見える。而かも驚く程大きな湖だ。
湖が見えてからの皆の元気は大したものであった。勇気百倍といふのは此のことであらう。歩く/\一目散に、いや走るのである。今までの労れは何所(どこ)へ行ったやら。妙に足が軽くなったやうだ。
右も左も前も後も茫々(ぼうぼう)たる草原つづく丘陵地(きゅうりょうち)。其の彼方に一きは高く天にひらめく旗、建物は僕等の宿る洞爺湖ホテルであらう。
湖畔に來て腰を下ろしながら洞爺湖の全景を眺望する。湖の中程に浮く中ノ島の緑。その背後に淡くもそびゆる蝦夷富士羊蹄山の姿。繪よりも美しい風光に暫しは言葉もない。
この湖は陥落湖(かんらくこ)で周囲九里餘(四十粁)の大湖であると聞いて驚いた。湖には姫鱒がゐるが之れは人工によって養殖したものださうだ。宿に着いてから釣道具を借りて姫鱒を釣って遊んだのは楽しかった。
夜は皆で唱歌會を開いた。初めは元気であったが労れが出て眠くなった。會を閉ぢて床へ入ったが何時(いつ)の間にか寝てしまった。
洞爺湖より帰宅まで
野本隆美
明けて二十六日、此の旅行の最終の日である。午前六時半朝食をすました僕等は自分のリュックサックや風呂敷の中の物の始末に餘念がない。やがて此の思ひ出多い洞爺湖ホテルに別れを告げて六時四十分出立した。皆の持物は土産(みやげ)品の為めに大そう大きくなってもう虻田駅までの徒歩を望む者は一人もない。電車に乗ることにして車中に風光を賞しながら虻田駅に向った。七時二十二分虻田着。
今度は汽車で虻田を發(た)って辨邊駅に着いたのは七時五十五分であった。すぐに罐詰工場を見學に行く。工場の人が親切に案内し説明してくれた。丁度毛蟹(けがに)を罐詰にする所であった。先づ採(と)って來た原料たる蟹を胴と脚とに切り離し更に皮をむいてきれいな肉を出して次へ送ると次の人は赤色のうすい皮をむきそれを皿のやうな物へ入れて又次へ送る。今度はそれにそぼろを入れたり目方を平均にしたりして又次へ送ると次の人は罐に入れて又送る。罐を積み上げて一ぱいになると機械にかけて密閉してしまふという實に面白い作業であった。
この製品は主に英國・米國等に輸出されるさうであるが近年米國ではだん/\買はなくなったから今度ペーパーを取り換へてもっと買ってもらふやうに計畫してゐると案内人から聞いた。更に油や粕にする所をも見せてもらって此所を辭(じ)して駅へ引返へした。
十時五十分又車中の人となって一路あこがれの大沼に向ふ。噴火湾の波打ち際を汽車はひた走りに走る。おそろしく長いトンネルを幾つもくヾって正午十二時頃長萬部駅に着く。その頃までには皆宿からもらって來た辨當を平げてしまってゐた。
汽車は更に大沼に向って勇ましく走り續ける。車外は天候にめぐまれた内浦湾、殊にこのあたりの風景は真の絶景である。
午後三時頃列車は大沼駅にすべり込む。皆元気でプラットホームに飛び出した。大沼は霧がかかってよい景色を充分に眺めることが出來なかったのは残念であったが駅前の廣場に出ると小堀先生がニコ/\顔で迎へて下さったのは嬉しかった。早速先生は公園廣場へ連れて行って下さった。野球をやったりボートに乗ったり展望台に上ったりして楽しく遊ぶうちに中の乗合自動車が迎へに來た。
一寸自動車を待たして一同大沼を背景に記念寫真をとった。それから自動車三台に分乗して一行三十四人は懐しの故郷尾札部を目指して疾走(しっそう)を始めた。溪流の音をかすかに聞きつヽ自動車は三十五哩から四十哩の快速力で走る。全く痛快であった。四十粁餘を僅かに一時間二分で午後七時尾札部に着いた。村の家々では父も母も皆戸口に出迎へて無事に帰ったことを心から喜んでくれた。
これで僕等が三日間の楽しかった大旅行は無事に終ったのである。荷物を下ろしてほっと一息、見返へれば海の彼方の室蘭の山々がかすかに見えて燈臺の灯がポッカリと點(つ)いて又消えた。
あヽ楽しかった修學旅行よ! 僕等が一生の嬉しい思ひ出の種となる事であらう。
(完)
高等科第二學年修學旅行記(昭和九年六月廿四・五・六日)