石工与七

34 ~  / 109ページ
       石工・与七             船越雄治
 
 西条駅周辺の石造物を調査していると、数多い石工名の中に似たような名前に度々遭遇する。「石工・与七」、「石工・與七」、「四日市住・石工・与七」、「窪田屋與七」等である。
 これらの石造物の年号を考察すると1809~61年の約50年間に集中するので1~2人の石工が活躍したと推定できる。江戸時代には同じ名前を親子孫と3代にわたって名乗ることが珍しくなかったので、親子2代にわたって「石工・与七」と刻んだとも考えられる。
 与七およびそれと似た石工名の石造物は平成二十五年現在11基見つかっていているので表に示す。
 以上11基のうち石鳥居玉垣は石工独自のデザインでつくるものではないので、一般的な作品であるが、他は優美な曲線を多用したデザインであり、しかも細かい細工を施している。
 無数の石造物と対面してきた筆者の目から見て与七の作品は他の石工と一線を画す秀作である。
 さて石工・与七をもっと知りたくなり研究会のメンバーに助けを求めたところ、2種の資料を提供してもらった。これで石工・与七は四日市宿に住み、地元の寺社に秀作を奉納したことが明白になった。
 資料のひとつは「四日市宿町並絵図」と称されるもので、幕末の頃、長州征伐に向かう幕府軍を四日市宿に泊めるに先立ち地元から提出させた住宅地図である。住人の名と間取りが詳しく記載されているが職業は不記載である。おびただしい名前の中に「与七」は2人見つかる。しかし2人が石工であるかどうかは不明である。石工であるならば石材の置き場や作業場が必要なので一般の民家よりは広い家に住んでいるはずである。2軒のうち一方は畳30畳分の広さがあるので石工の家であったと推測できる。絵図の位置を現在に当てはめると西条岡町通りの西条駅側の周辺に該当する。
 もうひとつの資料は「鶴亭日記」である。寺家に住む医者であったが、遠くは瀬野まで往診に出かける程、活動的な医師であった。そればかりでなく四日市宿にも頻繁に通い、そこで繰り広げられた事象を細かく日記に残している。その量は46巻、約1万ページに及ぶが、参勤交代時に四日市宿に泊まったある藩の宿泊先が記載されたページがある。おびただしい人名が羅列してあるが、この資料でも与七は2人出てくる。1人は「胡や・与七」であり、もう1人は「石工・与七」と職業が明記されている。下級武士7人を泊めたこともわかる。
石工・与七の石造物 表 (松村昌彦氏提供)
種類石工名年号場所
石鳥居石工當町與七郎文政元年(1818)御建神社
四日市住石工与七文政3年(1820)三升原・稲荷神社
四日市住石工與七文政3年(1820)柏原・稲生神社
窪田屋與七嘉永2年(1849)御建神社
玉垣石工久保田屋与七安政4年(1857)御建神社
町石工久保田屋与七安政4年(1857)御建神社
石仏石工与七文化6年(1809)旦過寺跡
石祠石工與七文政4年(1821)光野氏屋敷跡
手水鉢石工与七嘉永4年(1851)神社
石灯籠町石工久□田安政4年(1857)御建神社
石段石工与七文久元年(1861)教善寺山門