巨大地震は、太平洋側の北海道から四国沖にかけて圧倒的に多く発生している。これに対し、内陸および日本海沿岸の地震は内陸型と呼ばれ、最大規模でもマグニチュード(記号M、地震の大きさを表す尺度)「七」ぐらいで、巨大地震(M八以上)に比べ、エネルギー的には約三〇分の一以下で、発生頻度も少なく、これに伴う津波も軽視されてきた。
ところが、昭和五十八年(一九八三)五月二十六日の日本海中部地震は、「M七・七」の大地震で、このため秋田・青森の日本海西海岸に大津波が来襲し、百余人(青森県一七人)もの人命が失われた。本県の深浦港には地震発生から一〇分以内に津波第一波が到達するなど、不意を突かれた災害であった。現地調査では「日本海側には津波がないと思った」という証言が少なくなかった。さらにその一〇年後の平成五年(一九九三)七月十二日、北海道南西沖地震(M七・八)が発生した。渡島(おしま)半島西部の奥尻(おくしり)島では津波と火災で壊滅的被害を被り、死者二〇二人の惨事となった。本県でも小津波が観測されたが被害は軽微であった。
これらの事例は、日本海沿岸でも大地震があることと、この震源域を波源域とする津波災害の恐さを実証した。これら日本海の大地震は、ユーラシアプレート(岩盤)と北米プレートの境界近傍に発生した大地震とされている。実はこのような北海道西方沖から新潟沖にかけての日本海震源域の大地震は、過去の津軽地域の伝承や旧記に残っている。
例えば、中世に十三湖周辺を拠点に栄えた安東(あんどう)一族が衰退した最大の原因は、興国(こうこく)元年(一三四〇)の日本海地震に伴う大津波によるものといわれている。正史にないため、十三湊で何万人もが溺死したという伝承を確認する手だてはない。しかし、長く土地の人々の記憶に残ってきたとするなら、それだけでも、日本海沿岸海域の震源域を波源とした津波も無視できない。
昭和五十八年(一九八三)の日本海中部地震の場合、地震発生後七分で津波の第一波が陸地に到達したことからわかるように、日本海地震による津波の特徴は、海が浅く波源域が陸地に近いことから、小中規模地震でも比較的津波規模が大きく、退避時間に余裕がないほどの速さで来襲することである。
この海域の地震・津波の過去事例には、寛政四年(一七九二)青森県西方沖地震、天保四年(一八三三)秋田県能代(のしろ)沖地震、昭和十五年(一九四〇)積丹(しゃこたん)半島沖地震、昭和三十九年(一九六四)青森県西方沖地震などがある。また、特異例に津軽海峡北西沖の大島噴火による地震・津波がある。寛保(かんぽう)元年(一七四一)に大島が鳴動して、大噴火の直後に渡島地方の西海岸に大津波が襲来、一四六七人の溺死者、家屋・倉庫の破壊七九一棟、船舶破損一五二一隻などの被害が発生し、本県でも津波被害が津軽半島周辺で発生して、佐渡ヶ島や能登半島にも達している。
なお、日本海のプレート境界付近の秋田県沖(天保四年〈一八三三〉にM七・一が発生した海域周辺)は、繰り返し時間間隔(年)の空白域として特定観測地域になっている。