大正時代

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大正時代に入ると思わぬ発見があり、それを中心に調査研究が行われている。大正六年(一九一七)九月、南津軽郡浪岡町北中野(きたなかの)の天狗平(てんぐたい)山で大型土器が発見され、連絡を受けた東京大学は、笠井新也(一八八四~一九五五)を派遣し調査に当たらせた。この大型土器の内部から人骨が検出され、笠井は洗骨を経た再葬墓(さいそうぼ)であるという結論を下した(34)。この土器棺墓(どきかんぼ)(甕棺墓(かめかんぼ))については、当時東北大学にいた国史学の権威である喜田貞吉(きださだきち)(一八七一~一九三九)も論述している(35)。
 遺跡の中でも、特に貝塚から埋葬人骨が発見されることがある。大正十年(一九二一)北津軽郡相内(あいうち)村(現市浦(しうら)村)オセドウで道路工事中に貝塚がみつかり、翌年に宍倉宣孝(ししくらのぶたか)(一八九五~一九六六)がそれを学界に発表し(36)、同年十二月結成された十三史談会が発掘して四基の土壙(どこう)を発見。翌大正十二年(一九二三)には、伸展の葬法で埋葬された一体の人骨が現れたのである(37)。この人骨の発見を契機として、大正十四年(一九二五)には、当時東北大学医学部に在職中の長谷部言人(はせべことんど)(一八八二~一九六九)と、山内清男(やまのうちすがお)(一九〇二~一九七〇)がオセドウ・笹畑の貝塚を発掘し、多数の円筒土器を発見したが、人骨は見いだすことができなかったらしい。長谷部と山内は、翌大正十五年(一九二六)四月に八戸の是川一王寺(いちおうじ)遺跡を発掘し、多量の円筒土器を発見した。なおこの種の土器は、当時厚手(あつで)式土器の仲間としてとらえられていたが、長谷部によって円筒土器と命名されるとともに、下層式・上層式の分類がなされ、さらに山内は、下層式を縄文時代前期、上層式を同中期に位置付け、下層式をa・b・c・dの四形式に細分した(38)。上層式の同様な細分は、しばらく後の昭和十二年(一九三七)のことになる(39)。
 これより先の大正九年(一九二〇)十一月に、八戸の是川中居遺跡が泉山岩次郎(いずみやまいわじろう)(一八七六~一九六三)・同斐次郎(あやじろう)(一八八八~一九八二)によって発掘され、特に特殊泥炭層と名付けられた土層から、多数の堅果類とともに木製品や木材が発見され、学界はもとより一般からも注目を浴びるに至った(40)。この大発見は、縄文時代人を野蛮視し、当時存在したすばらしい製作加工技術を認めない学者の間では強く否定された。例えば喜田貞吉は、「徳川時代の末葉までアイヌ人が住んでおり、おそらく彼らが使用していたもの」というように、亀ヶ岡文化を江戸時代にまで下降させる見解を示したのである(41)。しかし一方では、大山柏(おおやまかしわ)(一八八九~一九六九、日露戦争時に満州軍司令官として活躍した大山巌(おおやまいわお)元帥の令息)を中心に結成された史前学会のグループが、杉山寿栄男(すぎやますえお)(一八八四~一九四六、デザイン研究家、特に原始工芸の研究で名高い)の斡旋(あっせん)によって、昭和三年(一九二八)四月に当遺跡を調査し、特に植物性遺物を中心とした詳しい報告を学界に提供した(42)。なお、是川中居遺跡は、隣接の一王寺・堀田遺跡を含めて、昭和三十二年(一九五七)に国の史跡の指定を受け、泉山両氏の発掘した遺物は、昭和三十七年(一九六二)に一括して八戸市へ寄贈された。この遺物の中で、六三三点が国の重要文化財に指定されている。