津軽への稲作の伝来

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大陸から伝来した稲作の技術は、遠賀川(おんががわ)土器(遠賀川流域の福岡県水巻町立屋敷遺跡採集土器が標式)を伴って北九州を基点に東進し、中国・四国地方を経て近畿に入り、その後日本海と太平洋側のルートを通って東日本へ伝播して来た。なかでも日本海側は猛スピードで北上し、津軽地方へは、予想を越えた早さで伝来したのであった。弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、東北北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ稲作農耕の伝来は紀元前一世紀初めということになろう。北九州などで大規模な稲作農耕の開始期と東北北部とは遅くみても一世紀の差であり、ことによるとその差は縮小される可能性も考えられる。
 日本の食料供給地といわれる東北地方は、日本海側か夏には高温多湿により稲作に適し、太平洋側は、稲が伸長する時季にヤマセと称する寒冷な季節風が障害を与え不作となる頻度も高い。
 八戸市の風張(かざはり)(1)遺跡や亀ヶ岡遺跡などの事例によると、縄文人はすでにコメを知っていた可能性は高く、三内丸山遺跡での発見にみられるごとく、植物栽培が縄文前期のころ(約五五〇〇年前)から行われていたと考えれば、縄文後期以後に稲の栽培をも実施していたと仮定しても、唐突な考えではなかろう。しかし東北北部で確実に稲作が行われたのは縄文終末以後のことである。
 東北北部に弥生文化が伝わり、その文化の基盤である稲作が行われていたとする考えは、昭和二十年代に東北大学の伊東信雄によって提唱された(2)。昭和三十年(一九五五)秋には田舎館(いなかだて)村で実施された圃場整備の際に、多量の土器が発見され、地元の中学校に勤務していた工藤正は伊東信雄の指導を受けて丹念にそれらの遺物を収集し、ついに多量の炭化米を発見したのである(3)。
 田舎館式と称する弥生中期後半の土器は、田舎館村の各地で出土し、なかでも垂柳(たれやなぎ)と高樋(たかひ)の両地域における発見量が群を抜いている。